シーホーク計画とその挫折
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「スプルーアンス級駆逐艦」の記事における「シーホーク計画とその挫折」の解説
新型対潜駆逐艦の計画は1959年5月の長期目標策定グループ(LRO)の提言にまで遡る。LROは、当時建造されていたDDG・DLGについて、AN/SQS-23ソナーは1965年以降の潜水艦には対抗困難であり、またテリア・ターター・システムは1965年以降の航空機には不十分であると見積もった。この時点では、アレン・M・サムナー級、ギアリング級などの大戦型駆逐艦の代替はまだ先の問題だと考えられており、それよりは空母機動部隊や対潜掃討群のためのハイテク護衛艦のほうが切迫した要請であった。 しかし艦隊再建近代化計画(FRAM)によって装備の更新強化が図られていたとはいえ、大戦型駆逐艦は既に運用寿命の末期に差し掛かっており、1961年9月、LROはこれらのFRAM艦の後継となる新型対潜駆逐艦に関して検討した。これらの検討を経て、まず1961年9月23日より、基本計画審議委員会(Ship Characteristics Board, SCB)において新型対潜駆逐艦に関する検討が着手され、1962年4月23日にはシーホーク計画(SCB239)として具体的な計画策定に入った。 シーホーク計画艦は、当時開発されていた様々な対潜センサー・兵器のプラットフォームとして予定されており、1965年度計画にプロトタイプを盛り込み、1967年度第4四半期に起工、1968年に進水し、1969年夏に竣工予定であった。ただし搭載予定の統合戦闘システムの完成は1971年中頃になると見込まれたことから、このプロトタイプ艦はあくまで船体や機関、ソナーなどの試験艦になる予定であった。また1962年8月にはミサイル航洋護衛艦(DEG)の計画が着手されていたが、これもシーホーク計画艦に合流させうると考えられていた。 当初、シーホーク計画艦の開発の主眼は搭載するセンサーや兵器に置かれていたが、まもなく主機が問題になった。従来通りのギアード・タービン方式のほか、COSAGやCODAG、COGAGが俎上に載せられた。ガスタービンエンジンは好評を博し、1964年3月に作成された試案ではCOGAG方式で125,900馬力とし、満載排水量6,150トンで最大速力38ノットを確保する予定とされていた。しかし、特に国防長官府 (OSD) の防衛科学技術担当長官 (DDR&E) は、原子力推進を推進する派閥の影響を受け、これと共通の技術を用いたギアード・タービン方式に拘泥していたほか、システム開発ではなく主機に重きを置く計画の趨勢そのものに反発していた。特に当時、SOSUSの整備などを背景に対潜戦のパッシブ化が志向され、潜水艦を含めて、対潜戦の枠組みそのものの大変革が進められていたことから、防衛科学技術担当長官は、システム開発への回帰を勧告した。 当時、ブロンシュタイン級を端緒とするSCB199シリーズの航洋護衛艦は大型化・高性能化を繰り返しており、1964年度計画のノックス級(SCB199C計画型)では更なる拡大強化が図られていた。これに伴い、1964年までに、速力を除けば、航洋護衛艦とシーホーク計画艦との差異は不明瞭化していた。このように計画が錯綜し、また搭載すべき各種システムがいずれも開発途上であったこともあって、1965年2月に発表された1966年度予算説明において、ロバート・マクナマラ国防長官はシーホーク計画の中止を発表した。
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