カティリナ事件
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「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事における「カティリナ事件」の解説
元老院議員となったカトは頑固な性格であり、元老院の会議は全て出席した上で、会議の席で政敵を批判した。 紀元前63年、カトは翌年の護民官に選出された。この年ローマを揺るがせていたルキウス・セルギウス・カティリナの一派による国家転覆の陰謀が発覚し、元老院はカティリナへ「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を決議した。カトはこれに対処していた執政官マルクス・トゥッリウス・キケロを支援する立場を取り、キケロはローマにいたカティリナの共謀者たちを捕らえた。元老院でガイウス・ユリウス・カエサルはカティリナの共謀者が有罪であることには同意したが、死刑とすることには反対し、財産を没収した上で一連の騒動が鎮静するまで獄に繋ぐべきと論陣を張った。一方で、カトはカティリナによる国家転覆の陰謀を鎮圧する為に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラらのカティリナの共謀者を死刑にするように提案、カティリナに関るあらゆる人間を告発し、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス(イタリア語版)らもカトの提案に賛意を示した。結局はキケロによる裁断で、カティリナの協力者に対する死刑が決定。イタリア北部で挙兵準備していたカティリナは反乱を起こしたが、ローマ軍との戦いで敗死した。 カトにとって、生涯の政敵となったカエサルとの関係はこのカティリナ事件から始まることとなった。カトは、カエサルがカティリナ一派と共謀して国家転覆を企んでいたとしてカエサルを激しく追及した。元老院でのカエサルとカトの議論が行われていた最中に、カエサルに対して一通の文書が届けられた。カトはその文書に関して追及し、カエサルからその文章を受取ったが、カトの異父姉でカエピオの同父姉に当たるセルウィリアが、カエサルに宛てたラブレターであった為、カトは大いに恥をかき、以降はカエサルとセルウィリアの間の醜聞に議論が移ってしまい、上記の話題は吹き飛んでしまったと伝わっている。なお、セルウィリアは後に離婚を余儀なくされた。
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カティリナ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:20 UTC 版)
「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「カティリナ事件」の解説
この年は激動の年であった。前年行われた執政官選挙では、あまり有力な候補者がおらず、ルキウス・セルギウス・カティリナとガイウス・アントニウス・ヒュブリダ、そしてキケロの争いとなり、カティリナが落選した。カティリナとヒュブリダは、クラッススとカエサルに支援されていた。 年初に始まった護民官によって提出された土地分配法の審議では、キケロはこの法案の狙いを、農地を分配する十人委員会から戦場にいるポンペイウスを排除するため、クラッススとカエサルが裏で糸を引いていると読んで、反対演説を行い成立を阻止した(『農地法について』)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}少数の人間があなたの財産を狙っているとする。そのときまず何を考えるだろうか。あなたを守る権力、委員会、そして手段から、ポンペイウスを排除する、そのことを考えない人間がいるだろうか。あなたがたが軽率に、何も考えずにこの法案を通した後になって、欠陥に気が付きポンペイウスを頼ったところで、後の祭りになることを望んでいるのだ。 —キケロ、『農地法について(De Lege Agraria)』2.25 カティリナはこの年の執政官選挙にも立候補したが、再度落選し、エトルリアでの反乱を企てた。このことが明るみに出ると、この年の執政官であったキケロに対し、「執政官は国家に害が及ばぬよう対処せよ」と命じる元老院決議が10月21日に成立。11月にはカティリナに対し「国家の敵(ホスティス)」宣言が発せられる。ところがこのカティリナには中央にも共謀者がおり、その中には執政官経験者であるプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラも含まれていた。12月3日、謀反の証拠を掴んだキケロは5人の関係者を逮捕。元老院でキケロに追い込まれた彼らは罪を認め、12月5日の元老院で対応が協議されることになった。翌年の予定執政官、14人の執政官経験者が極刑を求める中、予定プラエトルであったカエサルは陰謀に加担した者の死刑に反対する演説を行い、あくまでも終身の投獄を主張する立場をとる。クィントゥス・カトゥルス以外の多くの議員がカエサルの意見に賛同を示し始めた中、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)は謀反には極刑をもって臨むべしと強く主張し、結局陰謀者たちは執政官キケロによって処刑された。 あなた方は冷静さを失っておられるのではないか。誰しも自分が害を受けた場合にはそれを大仰にとらえるものだ。しかし、大いなるインペリウムを預かる我らには、下々のような自儘は許されるものではない。スッラの行なったプロスクリプティオを思い起こして欲しい。これが悪しき前例となって、将来我らに牙を剥かないと誰が言えるのか。 サッルスティウス『カティリーナの陰謀』カエサルの演説より要約 私は語りかけよう。国家よりも自身の資産や財産を大事に思われている方々に。目を覚ましたまえ。狙われているのは我らの自由と生命なのだ。これまであなた方が怠惰であっても国家が揺るがなかったのは、その偉大さゆえに他ならない。だが今、それが脅かされているというのに、寛容であれという人間がいる。最高神祇官たるカエサル殿は、悪人が死後どのような扱いを受けるか信じておられぬ様子。我らの弱腰な対応を見れば、奴らは喜び勇んでここになだれ込んでくるだろう。あなた方が自身のことだけを考え、欲望とカネに仕えるなら、空虚な国家に痛撃を加えられたとて、何の不思議があろうか。 サッルスティウス『カティリーナの陰謀』小カトの演説より要約 サッルスティウスは『カティリーナの陰謀』の中で、この二人の演説にほぼ1/6を割いている。ノウス・ホモであったキケロは12月3日には「国家の父(パーテル・パトリアエ)」と呼ばれ、軍事的勝利によらず感謝祭を開催された最初の人間となった。カエサルは方針決定後も更に妨害を続けたが、キケロやカトの意見を支持する一団に打ち殺されそうになった為、すっかり腰が引けてしまい、その年は家に引篭もったという。 翌紀元前62年には陰謀のさらなる追及のため委員会が設置された。その中でキケロは陰謀が何たるか報告を事前に受けていたという証言があったが、彼は容疑の潔白を証明し、逆に自分を告発した人物、そして委員会のメンバーの1人も獄につながれる事態となった。その間にプラエトルのカエサルは一貫して処罰の連座制に反対の立場を貫いた。なお、カエサルはクラッススと共に裏で陰謀を画策していたとも伝えられた。。 また、カエサルがこの陰謀に関わっていたという会議中に、彼は手紙を部下から受け取った。それを見たカトは、陰謀に加担した証拠だと中身を見せろと詰め寄った。カエサルは「これは大したものではない」と見せることを躊躇う様子を見せたが、カトが執拗に要求してきたので中身を見せると、それは愛人セルウィリア(カトの異父姉)からの恋文だったという。カトは「この女たらし!」と罵倒したが、それでカエサルを追及できなくなり、議場は大爆笑となった。これでカエサルへの疑いはかき消されたという。
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