エアランゲン兵舎の歴史
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「エアランゲン」の記事における「エアランゲン兵舎の歴史」の解説
18世紀になるまで辺境伯の兵士は、エアランゲン出兵の際には個人の館に宿営した。1810年にバイエルン王国に移管された後、主に経済的な理由から兵舎の開設に向けて何度も努力したが、成功しなかった。1868年に軍役と訓練を同時に行うオプション付きの一般兵役義務制度が施行され、兵舎は、都市や大学にとって死活に関わる要素となった。新たに嘆願がなされ、1868年3月12日に第6狙撃兵大隊がエアランゲンに配置された。バイエルン軍は市内の様々な建物に宿泊し、現在のテアター広場を演習に利用した。さらにマイヴァルトに射撃演習場が設けられた。 1877年、ビスマルク通りに最初の兵舎(イェーガー兵舎)が完成した。翌年、狙撃兵大隊に替わって、バイエルン王国第5歩兵連隊ヘッセン大公の第3大隊が入営した。1890年に第19歩兵連隊全体が駐屯することとなり、歩兵兵舎と練兵場の建設がなされた。1893年に練兵場の北西角に「バラッケンカゼルネメント」が建設され、1897年から軍の病院として用いられた。1901年10月1日、第10野戦砲連隊がこの街に配置され、そのために野戦砲隊兵舎が設けられた。この頃の市の人口は約 24,600人であったが、学生が 1,160人、兵士は合わせて 2,200人であった。住民達は、特に1870年/1871年のフランスに対する軍事的成功後、兵士達を高く評価した。 第一次世界大戦で、バイエルン第5歩兵師団隷下の2つのエアラング連隊は西部戦線で戦った。3,000人以上の兵士が命を落とした。戦後もエアランゲンは兵舎所在地の状態を保持した。ヴェルサイユ条約が兵士を10万人まで削減することを規定したため、新たに組織された国防軍第21(バイエルン)歩兵連隊の教育大隊だけが本市に留まった。 国家社会主義の時代、1935年に一般徴兵制度が復活し、国防軍の軍備拡張がエアランゲンにおいても軍事施設の大きな拡張をもたらした。様々な歩兵部隊が次々に駐屯するラインラント兵舎、1937年から第25機甲連隊が駐屯する機甲兵舎、食料補給所、弾薬・武器倉庫、さらにはテネンローエ近郊のライヒスヴァルトに練兵場が設けられた。 1945年4月16日のアメリカ陸軍第7軍の入城は、エアランゲンにとって第二次世界大戦の終結だけでなく、ドイツ軍駐屯地の終焉をも意味した。アメリカ軍部隊が破壊されずに遺った軍事施設を接収し、1950年/1951年の第7軍再開以降、少なからぬ拡張がなされた。フェリス兵舎(1943年にチュニジアで亡くなったジェフリー・フェリス少尉にちなんで命名された)は 128 ha、兵士や関係者の居住地域は 8.5 ha、テネンローエ練兵場は 3240 ha という規模になった。1980年代には、平均で約 2,500人の兵士と 1,500人の関係者がエアランゲンに駐留していた。 エアランゲンの住民達は、初めから複雑な気持ちでアメリカ人達と接していた。冷戦時代の防衛機能や、駐留に関係した職場といった点では歓迎されたが、兵士と民間人との間で衝突が頻発し、様々な活動が常に争いの種となった。最初の公然とした抵抗はベトナム戦争の期間に起こった。核兵器の存在が推測されたテネンローエの演習地や射撃練習場、ライヒスヴァルトの弾薬掩蔽壕が非難の的となった。アメリカ軍演習地の森林管理官を長年にわたって務めたヘルムート・ホルネーバーは1993年にアメリカ軍がいかに模範的に森林を保護したかを言明した。 多くの問題を抱えたことから、1980年代にはすでに兵舎を市内から移転させることが検討された。1989年に東西ドイツ国境が開放されると、撤退が間近であることの兆しが濃厚となった。1990年/1991年にエアランゲン駐留部隊(アメリカ軍第7軍隷下)は湾岸戦争に派兵された。この戦争終了後、駐屯地の解消が始まり、1993年7月までに完了した。1994年6月28日にこの土地は公式に連邦に移譲された。これにより、126年にわたるエアランゲンの軍事都市としての歴史は幕を閉じた。
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