射撃演習場
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マルチプレイに追加されたモードの1つ。文字通りアンロックした武器・ガジェットの射撃や各種車両・航空機・ボートなどが練習用に配置される。このモードでは敵プレイヤーなどが存在しないが、標的用の無人航空機や敵の装甲車などが配置され、射撃訓練用のマンターゲットも配置されている。
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射撃演習場
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開設当初は飛行場としての設置であり、その目的は日本本土攻撃の発進基地という位置付けであったが『調和』によれば貨物輸送機の発着に使用されていたという。日本降伏後、金武飛行場は一時放棄されたが、1947年に「飛行場を射撃場に使用する」方針が立てられた。当時地元では薪炭向けの材木切り出しのため村有林を払い下げて復興に資する計画を持っていたため、金武、並里、喜瀬武原の区長が演習場設定阻止の陳情を沖縄民政府工務部長で金武出身の松岡政保に働きかけを行った。しかし、米軍の強行により演習場としての運用が開始され、当初は小銃程度の使用だったものが、1949年になるとバズーカ、迫撃砲、野砲などが加わり、朝鮮戦争の開始によりさらに洋上に停泊する艦船による演習も追加されて大幅に拡大された。この頃同時に沖縄の基地自体も恒久化が決定された。 1947年7月:射撃場への転換を地元に通知 1947年9月:米軍が旧金武飛行場周辺の村有林に射撃場を設定し、射撃演習を開始 1950年6月:朝鮮戦争勃発に伴い、艦砲射撃、航空支援(銃撃、爆撃)等の演習が追加 1957年:「キャンプ・ハンセン」使用開始 1959年:「キャンプ・ハンセン訓練場」使用開始 1962年10月20日:兵舎地区を中心とした施設工事が完了 1971年6月30日:沖縄返還協定了解覚書C表によりキャンプ・ハンセン訓練場の一部177.4千㎡、キャンプ・ハンセンの一部390.6千㎡を返還 1972年5月15日:沖縄返還。2施設が統合され、「キャンプ・ハンセン」として提供開始 1975年5月19日:沖縄自動車道路敷のため約576千㎡を返還 1986年:キャンプ・マクトリアスより4軍共同運営の刑務所が移転。 1990年3月:最初の都市型戦闘訓練施設が完成 1996年12月2日:沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告にて、県道104号線越え実弾砲兵射撃訓練は、1997年度中に取りやめることが合意された。 2002年2月6日:着工を予定している漢那ダムのため、約839,000㎡が返還された。この際、漢那ダムの湖水面を米軍と共同使用することを返還条件とした。 2006年5月1日:在日米軍再編に伴い陸上自衛隊との一部施設共同使用の方針が発表される。 2006年7月10日:億首ダム用地として、土地約729,000㎡の返還を日米合同委員会で合意した。 2013年8月5日:キャンプ・ハンセン敷地内においてHH-60が1機墜落、乗員4名中1名が死亡した。この機は第5空軍第18航空団の第33救難飛行隊に所属する機だった 2013年9月:日米合同委員会は、キャンプ・ハンセンの一部返還に合意した。2014年6月30日に名護市幸喜区内の55ヘクタールを、2017年6月30日に名護市喜瀬区と許田区の計107ヘクタールを返還する計画である。なお、名護市長稲嶺進、沖縄タイムスなど、この返還を歓迎していない。 2014年6月30日:幸喜区の55ヘクタールを返還。 2017年6月30日:喜瀬区と許田区の計107ヘクタールを返還。
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