射撃盤の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 05:15 UTC 版)
ドライヤー射撃盤 海軍本部式射撃盤 (AFCT) そして1906年、イギリスの民間発明家であるアーサー・ポーレン (Arthur Pollen) は、これらの計算機から得られた情報をもとに、目標の動きを巻取紙の上にプロットして発砲諸元を求める装置を海軍本部に提示した。第一海軍卿フィッシャー大将は熱狂したものの、海軍部内には民間人であるポーレンへの不信感が根強く、またポーレンに支払わなければならない謝礼金の出費も懸念されたことから、結局、1913年に、砲術科のドライヤー大尉 (Frederic Charles Dreyer) が設計した射撃計算機を海軍本部式射撃盤 (AFCT) として採用した。 1913年には方位盤も同時に装備化されたことから、イギリス海軍の主力艦には、射撃統制システムと称されるにふさわしいシステムが構築されていくことになった。このシステムでは、射撃盤は防御甲板の下に設けられた発令所に配置されており、その計算結果は方位盤や射撃指揮官の指揮所に伝達されたが、射撃盤の歯車間の遊びなどのために誤差があり、指揮官はそのデータを必ずしも採用せず、弾着状況を直接観察して自分で判断して旋回俯仰を命令することもあった。 大日本帝国海軍では、1916年頃にポーレン式の装置を購入した際には「砲戦通信装置」と称していたが、1924年に金剛用として購入したバー&ストラウド式の装置の調査結果を踏まえて国内開発した装置は「射撃盤」と称された。またアメリカ海軍でも、ハンニバル・フォード (Hannibal Ford) によるレンジキーパー (Rangekeeper) が開発され、初号機は1917年に戦艦テキサスに装備された。
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