エアランゲン大学の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 13:46 UTC 版)
「エアランゲン」の記事における「エアランゲン大学の歴史」の解説
新市街の建設に次いで、エアランゲンの発展に決定的であった2番目の出来事が大学の開設であった。すでに宗教改革の時代にはこれにつながる計画があったのだが、1742年に初めてブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒが宮廷都市バイロイトに大学を設立し、早くも1743年にエアランゲンにこれを移転した。乏しい資金で造られた施設は当初共感を得られなかった。ブランデンブルク=アンスバッハ=バイロイト辺境伯カール=アレクサンダー(ドイツ語版、英語版)の時代(18世紀末)に、潤沢な経済基盤が形成され、学生数は徐々に増加していった。しかし学生数は200人を超えず、辺境伯領がバイエルン王国に編入されたことで約 80人にまで減少した。王国で唯一のルター派神学部であったため、かろうじて閉鎖の危機は回避された。 ドイツの他の大学と同じように、1880年代半ばに躍進が起こった。学生数は、1869年/70年冬学期末で 374人となり、1890年には 1,000人に達した。創設初期には法学部の学生数が先行したが、バイエルン時代の初めからは神学部が最も人気であった。1890年になって医学部がこれを追い越した。正規の教授数は、1796年の 20人から、1900年には 42人まで増加した。このほぼ半数が哲学部に籍を置いていた。ただし、自然科学もその一部であった。自然科学は1928年にやっと独自の学部となった。2011年/12年の冬学期現在、5つの学部合わせて、生徒数約 33,500人、講座数 312、教授数 293人である。これにより、エアランゲン大学は、2011年/12年冬学期の始め時点で、初めてドイツの12大大学の1つに加わった。 1897年に初めて女子に入学が許された。最初の学位授与は1904年に行われた。大学の創設者であるフリードリヒ辺境伯と中興の功労者であるアレクサンダー辺境伯にちなんで、この大学はフリードリヒ=アレクサンダー大学を名乗っている。 城館庭園を付属した辺境伯の城館は、1818年に大学の所有となった。19世紀後半から城館庭園の周囲に、多くの大きな大学の建物が建設された。コレギエンハウスや大学病院などがこれにあたる。 大学は、建物の損害が比較的少ない状態で世界大戦を切り抜けた。アメリカ占領軍により行われた非ナチ化により戦後数多くの大学教師が罷免された。この空席には旧ドイツ東部領土からの教授が補充された。これは主にプロテスタントの教員からカトリック多数への変化をもたらした。 戦後、学生数のみならず講座数もさらに拡大した。エアランゲンに移転したシーメンス AG との共同作業はさらなる拡充に決定的な刺激を与えた。特に技術・自然科学系学部のための南キャンパスの建設などである。1961年にはヒンデンブルク大学ニュルンベルクが経済・社会学部として、1972年には教育大学が教育学部として統合された。これ以後大学名は、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクと改名された。 1960年代の学生運動は、やや遅れて、かなり弱体化してエアランゲンに及んだ。
※この「エアランゲン大学の歴史」の解説は、「エアランゲン」の解説の一部です。
「エアランゲン大学の歴史」を含む「エアランゲン」の記事については、「エアランゲン」の概要を参照ください。
- エアランゲン大学の歴史のページへのリンク