アメリカ合衆国軍団との協業
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「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「アメリカ合衆国軍団との協業」の解説
セントクレアが敗北した後、ワシントン大統領は議会に、北西部領土でインディアンと戦うために5,000名の軍隊、アメリカ合衆国軍団結成の承認を求めた。議会は1792年3月にこの提案を承認し、フィラデルフィアの友人からこの軍団の指揮官としてスコットが検討されていると知らせてきた。しかし、最後はワシントンが、スコットは「不適当な能力」であると判断した。スコットが酒を飲み過ぎるという悪習もワシントンの心配事だった。その代わりにワシントンは"マッド"・アンソニー・ウェインを軍団指揮官に選んだ。ケンタッキーが公式に州に昇格した直後の1792年6月4日、ケンタッキー州議会はスコットとベンジャミン・ローガンを州民兵隊の少将に任官した。6月25日、スコットは民兵第2師団の指揮官となり、ケンタッキー川北で作戦展開する任務を与えられた。ローガンの第1師団はケンタッキー川南が担当だった。 新しい州議会は州都とする町を選定するために5人委員会も指名した。スコットは、まだできたばかりの町だったピーターズバーグを州都候補に提案した。他の候補地としては、フランクフォート、レキシントン、ルイビル、ブーンズボロなどがあった。最後はフランクフォートが選ばれ、ピーターズバーグを州都に指定してもらい、存続能力のある町にすることすら難しい町を成功させようという試みが失敗した。スコットの息子、チャールズ・ジュニアは弟のダニエルに宛てて、父は1792年にアメリカ合衆国下院議員選挙に出馬しようとしていると、手紙で知らせていた。チャールズ・ジュニアは父が当選するという自信を表明していたが、その運動が実現されることはなく、始まった直後に躓いた。しかし1793年にスコットは大統領選挙人に選ばれた。 ウェインは当初、ケンタッキー民兵隊を使ってインディアンに対する先制攻撃を行い、連邦軍のみで主侵略を行うつもりだったが、1793年半ばにワシントン砦に移動する段になって、予定していた5,000名のうち3,000名足らずしか集められなかった。このとき、スコットとローガンの部隊にも本隊に合流するよう要請した。ローガンはにべもなく連邦軍士官との協業を断ったが、最後はスコットが同意し、ウェインは1793年7月1日付けでスコットを連邦軍士官に任命した。スコットとアイザック・シェルビー州知事は、ウェインの作戦でスコットが率いていくことになる1,500名を立ち上げるために徴兵を始めた。スコットが10月21日にジェファーソン砦でウェイン軍に合流したときは、やっと1,000名を纏めただけだった。 11月4日、ウェインはスコットの民兵隊に、近くのデラウェア族集落を破壊するよう命じた。ケンタッキー民兵は依然として連邦軍士官に不満と不信を抱き、冬が近付いてもウェインが本隊の攻勢を始めようとしないことに気付いたので、その任務に熱心ではなく、その多くは些末なことと考えていた。その夜に民兵の501名が宿営地から脱走したが、ウェインはその報告書で、スコットとその士官達が脱走を食い止めるためにできる限りのことをしたと考えると記していた。スコットは残った兵士で任務を遂行し続けようとしたが、厳しい天候のために大きな攻勢を掛けることを妨げられた。最終的に小さな狩猟用宿営地1つを蹴散らしただけで、ワシントン砦に進み、11月10日には召集解除した。ウェインはスコットに冬が明けたら全軍をもって戻ってくるように命令した。 1793年から1794年に掛けての冬の間に、ウェインとケンタッキー人との間の緊張関係は冷めていった。ウェインは、ケンタッキー州志願兵が反抗的であるにも拘わらず、良い軍人であることに気付いた。民兵達はウェインを観察して、ハーマーやセントクレアとは異なり、インディアンとの戦い方を知っていると判断した。ウェインは冬の間にセントクレアが敗北した場所にリカバリー砦を建設することで、ケンタッキーにおける人気を上げた。インディアンはセントクレアに勝利したことをその伝説の1部とし、西部開拓者に対して戦い続ける意気が上がっていた。ウェインがこの地に砦を建設したことは、インディアンの心理にとっての打撃となり、インディアンがその地域中から掘り出してばらまいた600個ほどの頭蓋骨を埋め直させたことは、ケンタッキー人にが死者の多くを知っていただけに人気になった。スコットは個人的にウェインを尊敬するようになったが、友人のジェイムズ・ウィルキンソンは北西遠征隊を自分で指揮したかったために、ウェインのイメージを汚すような匿名の活動を始めた。スコットはフィラデルフィアを発つときに、陸軍長官ヘンリー・ノックスに宛ててウェインの評判を守るための手紙を書き、そのことでウィルキンソンとの友情に傷を付けた。 1794年6月、スコットはフィラデルフィアからケンタッキーに戻り、1,500名の民兵を集めて、7月27日にグリーンビル砦でウェイン軍と合流した。スコットとトマス・バービーがこの部隊を率いて、ウェインの正規兵1,000名を支えた。この共同軍は素早く行軍し、8月8日には明け渡されたばかりのインディアン集落グランドグレイズを占領した。ここでウェインはデファイアンス(挑戦)砦の建設を命令し、それに1週間を要した。スコットは砦の名前をつける責任があり、建設を観察している間に「私は、イギリス、インディアン、そして全ての地獄の悪魔に砦を取って見ろと挑戦する」と宣言した。スコットの騎馬志願兵がもたらした情報に基づき、ウェインは8月14日にマイアミ砦への行軍を命令し、そこの2,400名になるイギリス軍とインディアンの合同部隊との戦闘を想定していた。8月20日午前8時45分頃、ウィリアム・プライスの志願兵旅団がマイアミ砦近くでインディアン部隊との交戦を始め、フォールン・ティンバーズの戦いが始まった。好適な位置に陣取ったインディアン部隊がプライス隊を押し返した、ウェインがその正規兵に活発な銃剣突撃を行うよう命じ、それがインディアンを潰走させた。マイアミ砦のイギリス軍指揮官ウィリアム・キャンベル少佐は同盟インディアンのために砦の門を開けることを拒んだ。ウェイン軍が決定的な勝利を上げた。 この戦闘後、ウェインはスコットの志願兵隊にその位置から半径50マイル (80 km) 以内で多くの襲撃を行うよう命じた。ウェイン軍には荷馬がいなかったので、1794年9月中に砦間の物資輸送にも騎馬志願兵が使われた。最後は守備隊任務にも疲れてきて、荷物を運ぶために個人の馬を使うことは馬を痛めてしまうと苦情を言うようになった。除隊を認められなければ、反乱を起こすと脅した者も多かった。1794年10月13日、最後はウェインが彼等に帰郷を命じた。ウェインが12月4日に発行した推薦状に従い、アメリカ合衆国議会下院は、フォールン・ティンバーズの戦いでのスコットとその部隊の活躍に特別の謝意を表明した。1795年半ば、グリーンビル条約締結により、正式に北西インディアン戦争を終わらせた。
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