アディスアベバの春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「アディスアベバの春」の解説
1960年に皇帝ハイレ・セラシエ1世の外遊中にクーデター未遂が発生するが、これは親衛隊のネウェイ兄弟が軍部の主導権を握るために起こしたものであり、アスファ皇太子を脅して担ぎ上げたことからも体制自体の転覆は考えてはいなかった。そのため、ラジオでアスファ皇太子に声明文を発表させたものの、ラジオ自体の流通の少なさとハイレ・セラシエの権威から続くものはなく、すぐに鎮圧されてアスファ皇太子も救出されたが、皇族18人が突撃の際に反逆者によって殺害された。多数の親族の死と、自ら子飼いとして育成した親衛隊の反乱は、ハイレ・セラシエの振る舞いに影響を与える。それまでイタリアへの抵抗活動の英雄である諸侯たちを、自らへの批判を理由に次々と処刑していった。 また、当初は自ら熱心に改革に乗り出していたハイレ・セラシエだったが、1970年代にもなると国璽を預かる大臣アキル・ハブタの専横を許すようになっていた。周囲の側近らがもたらす情報をそのまま受け入れ、エチオピアの根幹産業の行き詰まりをまったく理解できていなかった。1967年の第三次中東戦争によって封鎖されたスエズ運河は、エチオピアの石油製品の価格を高騰させ、タクシーは運転するだけ赤字になるためエチオピアから姿を消した。原油価格に合わせて物価は上昇し続けて、1973年は一か月で前年比20%を上昇し、それに対して政府は無策だった。さらに農業の近代化は依然として放置されており、技術の乏しいエチオピアの農業は、1972年から一年に渡る大旱魃に何の対応もできなかった。そのため、旱魃に続く1973年の飢饉を避ける人為的な手段は何一つ打たれることなく、ウォロ州、ティグレ州、シダモ州の飢餓は深刻を極めた。ウォロだけでも、わずか4ヶ月で10万人の餓死者が発生し、放置された飢餓はさらにままショア州、ハラルゲ州といった地方へと広がっていった。国際社会はこの惨状についてエチオピア政府を非難するとともに、オイルショックの混乱に見舞われながらも救援物資を送り届けたが、それらは為政者の不正行為によって高額で売りさばかれることになった。飢饉の後期には、ついに餓死者は20万人に達する。だが、皇帝は飢饉が起こっていることすら側近に知らされず、国内の報道機関は強い言論統制で縛られていた。政府は飢饉のニュースをデマであると否定し、対処のなされない飢饉と失業がエチオピアに蔓延した。それらの事情を一切知らないハイレ・セラシエは、ペットのライオンに肉を与えている写真を撮影され、公表によって民衆の激しい怒りを買った。 1973年に入ると、インフレと低賃金から労働者は労働組合をつくり、ストライキが各地で起こされた。軍部においても飲料水と食料の配給が滞り、南部のネゲレで陸軍第4師団の反乱が起こる。特にエチオピア政府にとって痛手だったのは、2月の旧エリトリアの首都アスマラでの陸軍第2師団の反乱であり、20%の賃金引上げを求める訴えは海軍、空軍にも支持の輪を広げた。ハイレ・セラシエは当初、この反乱に対し強気で臨んだが、2月28日にはクーデターを起こされて首相らが捕らえられるという事態に陥ると兵士たちの要求を聞き入れた。兵士の要求によって首相に就任したエンダルカチュー・マコンネンは事態を収めるためにハイレ・セラシエの権限を抑える立憲君主制の採用で体制の維持を図ろうとしたが、軍部と民衆が求めるのは共和制であり、象徴としてのハイレ・セラシエの温存はほぼ絶望的となる。また、この皇帝の権威の失墜と時を同じくして、ホレッタ・ミリタリー・アカデミー卒業らによってデルグ(Derg)が結成され、共和制による新たな国家建設を目指して軍部に活動を広げていった。 1974年9月11日午前3時、外出禁止令が布告されたアディスアベバ市街をエチオピア軍の部隊が宮殿に向けて移動を始める。午前7時半、ラジオは皇帝の退位を伝えた。皇帝は巨大な宮殿から小さなフォルクスワーゲンに強制的に移され、アディスアベバから連れ去られた。翌日、皇帝は殺害された。公称3000年の歴史を誇るソロモン王朝の終焉だった。実行者は軍のハイレ・マリアム少佐であり、その行動の背景にはデルグ政権の帝政解体の決断があった。
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