こすぎまるやまいせきとは? わかりやすく解説

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小杉丸山遺跡

名称: 小杉丸山遺跡
ふりがな こすぎまるやまいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 富山県
市区町村 射水市
管理団体
指定年月日 1990.03.08(平成2.03.08)
指定基準 史1,史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 富山平野西部には射水平野広がり、その南側には射水丘陵起伏に富む姿で樹枝状に伸びている。この丘陵には古くから人々の生活の跡が印され、とくに古墳時代から平安時代にかけては須恵器窯・製鉄炉・炭窯、あるいは集落古墳多数営まれ大規模な手工業生産地であったことを物語っている。
 この地域富山県流通業務団地計画に伴い昭和五十二年から事前発掘調査実施されてきた。このうち丘陵南西部位置する小杉丸山遺跡は、昭和五十七・五十八年に本調査が行われ、その結果保存決定された後、保存計画策定のために昭和五十九・六十年継続して周辺確認調査実施された。
 遺跡は主に、丘陵狭く南に延び部分所在する窯跡中心とした遺構と、丘陵北東部古墳群からなるが、旧石器時代から江戸時代までの多く時代わたって、九八〇〇平方メートルに及ぶ大規模な複合遺跡営まれた。とくに飛鳥時代後期七世紀中頃から後半)には、丘陵の西斜面中程に瓦と須恵器生産した一号窯が営まれ丘陵頂部まで竪穴住居二四軒と段状遺構五か所が取りまく。また、一号窯から八〇メートルほど離れた反対側に当たる丘陵先端部の東斜面には須恵器生産した二・三号窯が確認されている。さらにこの丘陵の裾部を取りまく谷部には一・五メートル前後厚さ良質な粘土層が広がり、沢に沿って多数粘土採掘坑が、西側に約二五〇メートル以上、東側に八〇メートルほど続く。
 一号窯は斜面向かって地山掘りさげ、スサ入り粘土天井構築した半地下式で無階無段の窖窯である。窯体の全長は約七・三メートル、幅一・五メートルであり、焚口付近より煙出し部が一・五メートルほど高い。灰原南北一〇メートル東西約五メートル広がり、五~三〇センチメートル厚さをもつ。そこには軒丸瓦須恵器などが整理箱五杯分ほど混在していた。一方二・三号窯は、一・五メートルほど離れてほぼ平行して構築されているが全体規模・構造などは未調査のため確認されていないまた、段状遺構とは、丘陵斜面を削平して平坦なテラス設け、その中央地床炉と浅い柱穴認められるのである。この種の建物は、比較簡易な工房的なものであろう
 遺物軒丸瓦丸瓦平瓦須恵器の杯・・壷・甕・高杯土師器高杯・甕などを始め須恵器製作に用いられ陶製同心円文を施したアテ具、紡錘車土錘製塩土器土馬などが出土している。
 このように遺跡は、飛鳥時代後半の瓦・須恵器製作の窯、工房粘土採掘坑、工人住居など窯業生産全貌を示す好例である。また出土した軒丸瓦は、飛鳥地方坂田寺系統を引き、約一一キロメートル離れた高岡市の[[御亭角]おちんかど]遺跡供給されている。これらのことは、畿内政権及び仏教影響下で成立した各地方での瓦葺建物造営はじまりその歴史背景北陸地方具体的に示す重要なのである
 また、丘陵北東部尾根上には八基の円墳並んでいる。いずれも墳丘直径一三二〇メートルで高さ二メートル以下の小規模なもので、周溝確認されている。主体部発掘した三基については、墳丘中央部長方形の墓壙をもち、箱形あるいは割竹形木棺入れられたと推定されている。なおこれらからは鉄剣直刀鉄鏃ガラス小玉発見されている。埋葬方法遺物特徴あるいは当地域における横穴出現時期が六世紀末といわれていることから、この群集墳年代は六世紀後半とみられ、被葬者当地域で窯業を営んだ集団より古い。この古墳群窯業跡との関係確定できないが、近接しており両者の間に何らかの関連があったであろう
 よってこれら(古墳については現存するもの六基)を史跡指定し保存図ろうとするものである



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