“唐人”の格好
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岡本綺堂の『半七捕物帳』第54話、「唐人飴」は題名通り唐人飴売りが主題の話で、物語は知人の飴売りと立ち話をしていた半七と出会い、その縁で半七から主題となった唐人飴売りの昔話を聞くところから始まる。 「(前略)…ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」「じゃあ、和国橋の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」 「そうです、そうです。更紗でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓くつをはいて、鉦かねをたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」 唐人飴売りの姿は英一蝶の『一蝶画譜』(1770年頃。挿画は鈴木鄰松)、や十返舎一九の『方言修行金草鞋』(1813年 - 1834年)、江戸後期の文人、考証家・石塚豊芥子の『近世商買尽狂歌合』(1852年)にある挿画、そして鈴木其一の『飴売り図』などに描かれている。これらの絵画に見られる唐人飴売りの姿は、以下に挙げる特徴の幾つかを持っている。 韓国のカッに似た山高で皿を返した形状の広いつばを持つ帽子(唐人帽)をしている。帽子には鳥の羽根があしらわれている。 団領袍(明朝時代の官服)を思わせる上着を羽織る。 すねには黒い脚絆をしている。 笛や太鼓を持っている。笛はチャルメラに近い形状をしている。 異国風の傘を広げている。 ドジョウ髭を生やしている。 唐人飴売りがいつ頃に出現したのか正確な年は定かではないが、江戸中期の1805年から1809年にかけて戯作者、感和亭鬼武が記した『有喜世物真似舊觀帖』3編の内、1806年の第2編に唐人飴売りの記述がある。英の『一蝶画譜』はそれ以前の1770年代である。大田南畝の随筆を死後編纂した『半日閑話』第一巻には、「今飴を賣る者の笛を吹くは、古くよりの事也…(以下略)」とあり、詩経・周頌の詩や明の瞿宗吉(瞿佑)の『剪灯新話』などの例を挙げて、都での物詣で道の脇で傘を広げ水菓子や飴を売る者たちに似ていると記されている。第一巻におけるこの飴売りの項目には明確な年は記載されていないが、『半日閑話』の元となった『街談録』は明和5年(1768年)から書かれたものである。 江戸時代、通信使節として参内したオランダ人、朝鮮人、琉球人の一行だけが江戸の町人が見る機会があった外国人だが、その中でも喇叭(ナバル)(朝鮮語版)や、太平簫(テピョンソ)(朝鮮語版)といった日本では類似品がない楽器を含めた楽団を引き連れ、200人から300人の行列で参内した朝鮮通信使の一行は、多くの絵画や滑稽本の題材となり、江戸時代における唐人像に深く影響を与えることになった。やがて、『神田明神祭礼絵巻』などに描かれた通信使の仮装行列や、喜多川歌麿が吉原遊廓の遊女たちが唐人帽に細長い喇叭を吹かした「唐人はやし」と言われる俄に興ずる姿を『韓人仁和歌』で描いたような日本風にデフォルメされた“唐人”の姿が形成された。吉原の風俗について記した梧桐久儔の『吉原春秋二度の景物』によれば安永5年(1776年)には吉原で中の町茶屋衆の子息が俄で唐人を演じたとある。このようにして唐人笛として定着した喇叭は、後に唐人笛売りなる専門の物売りが登場するまでになった。 宝暦14年(1764年)に第11回目の朝鮮通信使が派遣されたが、この一行は大阪で通辞役の対馬藩士・鈴木伝蔵が使節の随行員を殺害する事件(唐人殺し)が発生し、一躍世間の注目を浴びた。1767年にはこの事件を脚色した『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)が上演されるが2日で禁止された。吉原での唐人はやしや、英一蝶、感和亭鬼武が記した唐人飴売りはこうした唐人に対する世間の注目があった時期でもあった。 これに加えて、江戸市中には三官飴を売る大店が多くあり、中でも雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある川口屋(現在も上川口屋として続いている)では飴の袋に唐人帽の唐人や唐団扇を描き、「本唐飴」と銘打ち販売していた。三官飴自体が来日した明人が伝えたという伝承がある菓子であり、当時飴は明由来の菓子であることが強調される商品であった。唐人飴売りは通信使に影響された唐人像と、明伝来と謳われた飴という2つの舶来文化が総合した姿だと言える。 やがて文政年間になると、石塚豊芥子が『近世商買尽狂歌合』にて紹介した「安南こんなん飴」の飴売りが江戸で人気を博した。文化10年(1813年)から天保5年(1834年)に書かれた十返舎一九の『方言修行金草鞋』の十七(もしくは十八)編、「房州小湊参詣」では安房国長南(現在の千葉県長生郡長南町)に唐人帽をかぶり喇叭を吹く飴売りの姿があり、唐人飴売りのスタイルが江戸市外でも広まっていたことが伺える。
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