帰島
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1890年(明治23年)7月2日首里役所長兼中頭役所長となり、3日兼官を解かれ、また宮古島役所長を兼務した。1892年(明治25年)春中頭郡内でケブカガニ(中国語版)・フトユビシャコモドキ(ブルガリア語版) を採集した。1893年(明治26年)3月バジル・ホール・チェンバレンに『おもろさうし』等の写本を提供、6月25日笹森儀助と会い、1894年(明治27年)12月来島した幣原坦に尚家宝物の閲覧を斡旋した。1895年(明治28年)11月29日帝国大学に本島産メックワハブ標本を寄贈した。 第4代県令西村捨三の県政を評価する一方、他の知事は成果を上げていないと批判し、当時の知事奈良原繁とも折り合わなかった。1896年(明治29年)4月1日郡制施行に伴い内閣により中頭郡長に任命されると、同日付で県から書記への降格を命じられ、6月10日非職、10月9日免官となり、以後は県属として事務職を務めた。11月11日北松浦郡平戸村228番地から首里区字赤平55番地に戸籍を移した。 1897年(明治30年)小川鋠太郎・和田規矩夫・太田朝敷・鳥居竜蔵・黒岩恒・熊谷釟吉・富永実達と沖縄県尋常師範学校に沖縄人類学会を設立した。 1900年(明治33年)3月15日沖縄で死去し、島尻郡真和志村古波蔵楚辺原共同墓地に葬られた。1921年(大正10年)後任斎藤用之助により洗骨・火葬され、平戸に移葬された。
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帰島
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酒井(山下軍曹)の横暴はひどく、村民の病人も多かったことから、7月30日、ついに彼に隠れて当時の波照間国民学校の識名信升校長らが舟で西表島を脱出して、石垣島の独立混成第45旅団長に直訴。ようやく疎開命令の解除を取り付けた。この時、識名は酒井(山下軍曹)に疎開解除が許可されたことを伝えたが、酒井(山下軍曹)は拒否した。たまりかねた島民は8月2日に緊急部落会を開いて全会一致で帰島を決議。酒井(山下軍曹)もこれに抗することはできなかった。なお、識名校長はこの横暴を極めた酒井(山下軍曹)と疎開の惨状について「自分と同じ人間がもう一人いたら山下軍曹を海に突き落としていたのに」と語っていたという。 島民は8月7日から帰島を開始し、まもなく8月15日に終戦となった。帰還を果たしたものの、すべての家畜は処分され、4ヶ月放置したままの農地は雑草に覆われ、住民は栄養不良と疲労が重なり、しかもマラリアに罹患している状態であった。その影響は長く残った。波照間住民のマラリア罹患率は99.7%(99.8%とするものもある)、死亡率は30.09%との記録がある。つまりほぼ全員が罹患し、その三分の一弱が死亡したのである。 疎開命令の解除を受けたとき、識名校長は、南風見田にあった石に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻み込んだ。これが今も残る忘勿石(わするないし)である。刻み込まれた文字は、長年の風雨にさらされて侵食が進んでいるが、今でも確認することができる。さらに1992年、マラリアで死亡した住民の霊を慰め、この悲劇を後世に伝えるために忘勿石のすぐ近くに「忘勿石之碑」が建立された。その後も8月15日には慰霊祭が行われている。 この波照間島と黒島における疎開は、むしろ住民避難の際に家畜を殺させ、その肉を回収することに軍の力を注いでいたという見方もある。宮良作は、むしろ旅団本部が肉を確保するために、必要のない住民疎開の命令を出したのだと主張している。黒島でも家畜が処分されたが、波照間島の場合よりやや穏やかで、家畜の所有者には軍側の一方的な価格ではあるが現金を支払われた。これは、波照間島でのあまりに強引なやり方に内部でも批判があったためという[要ページ番号]。
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