帰島への挑戦と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
「還住 (青ヶ島)」の記事における「帰島への挑戦と挫折」の解説
救助船は八丈島に無事到着し、天明5年の噴火によって八丈島にやってきた青ヶ島の島民は約160名に達した。また天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民が約40名いたため、八丈島には約200名の青ヶ島島民が生活を営むことになった。 激しい噴火のためにやむを得ず八丈島に逃れてきたものの、八丈島では青ヶ島で噴火が始まる前の明和3年(1766年)から明和6年(1769年)にかけて大飢饉に見舞われ、中之郷村では人口の約3分の2にあたる733名が餓死するなど、八丈島民の生活は苦しかった。青ヶ島島民の大部分は大賀郷村の外れに集まって住み、おもに八丈島島民の使用人として生計を維持するようになったが、飢饉が相次ぎ生活が苦しい八丈島に居候する形となった青ヶ島島民の生活は大変に厳しいものであった。現在、八丈島の大賀郷には八丈島で死去した青ヶ島島民たちの墓地が残っているが、周囲の墓よりも狭い場所に小さな墓が数多く建てられており、八丈島で暮らす青ヶ島島民たちの厳しい生活ぶりを見ることができる。 青ヶ島の名主の七太夫は噴火や島民避難の報告と救援依頼のために江戸に向かった。その結果米、麦、大豆を二艘の船に載せて青ヶ島島民の救援物資として八丈島に送られることになったが、うち一艘は天明5年10月9日(1785年11月10日)、八丈島沿岸に激突して破壊されてしまい、乗船していた七太夫も死亡した。 そのような中、天明6年(1786年)八丈島島民の高村三右衛門が、蓄えてきた500両もの大金を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出した。この500両は八丈島の島民に年1割2分の利息で貸し出され、利息のうち10両は高村三右衛門の娘が受領することとし、残りの50両は青ヶ島住民たちの食糧の購入や青ヶ島の復興に充てられることになった。
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