帰島運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:21 UTC 版)
「アメリカ施政権下の小笠原諸島」の記事における「帰島運動」の解説
欧米系島民以外の多くの旧島民は、小笠原諸島へすぐに帰島することができなかった。旧島民の多くは疎開によって着の身着のままやってきた者が多く、また帰島を希望するが故に日本本土に生活基盤を築かなかった者も多かったため、生活に困窮した。帰島を希望する旧島民たちは1947年(昭和22年)7月に小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟を設立して、GHQや日本、アメリカ両政府に対して陳情を繰り返した。 1952年(昭和27年)9月には、帰郷促進連盟の陳情を受けた岡崎勝男外務大臣が駐日大使のロバート・ダニエル・マーフィー(Robert Daniel Murphy)と会談し、翌10月に行われる父島の現地調査に日本側代表者を同行させることを了承させた。これを受けて、帰郷促進連盟から1名が父島に派遣されることが決まったが、アメリカ国防総省の反対により、現地調査はアメリカ政府関係者のみで行われた。なお、1955年(昭和30年)当時、帰島を希望する旧島民の数は旧島民全体の37%にあたる2,600名であり、帰郷促進連盟がアメリカ政府に送った陳情書の数は、1947年(昭和22年)から1962年(昭和37年)の16年間で86通に及んだ。 この運動に対して、小笠原諸島米国軍政府長官であったアーサー・W・ラドフォード(Arthur William Radford)は、1951年(昭和26年)に父島を視察した後、対ソ連戦略において、父島の潜水艦基地及び硫黄島の空軍基地は補助基地として必要不可欠であると考えた。そのため、欧米系島民のアメリカ市民権獲得を支援した反面、日本への返還や旧島民の帰島に強く反対した。またラドフォードは、旧島民の帰島によって反基地運動が起こることにも懸念を示した。加えて、1956年(昭和31年)6月から父島と硫黄島に核兵器が保管され始めたため、アメリカ国防総省は住民の帰島により一層難色を示すようになった。一方、駐日大使のロバート・ダニエル・マーフィーからは、1952年(昭和27年)に米軍基地のない母島への帰島を認める妥協案が出されたが、この案はラドフォードによって却下された。 また、欧米系島民の中には旧島民の帰島に反対する声もあった。1955年(昭和30年)11月に訪米した小笠原諸島代表委員会の代表団は、国防総省及び国務省の関係者と面会し、82人分の署名とともに意見書を手渡した。意見書の内容は、旧島民のほとんどが1930年代以降の移住者であること、旧島民7000人全員の受け入れは不可能であることについて書かれていた。 帰島運動と並行して、帰郷促進連盟は日米両政府に対して生活補償金の支払いを求め続けた。当初、日米両政府は補償金の支払いを拒否していたが、日本政府からは1955年(昭和30年)に1億円、翌1956年(昭和31年)に4000万円の見舞金が支給され、アメリカ政府からは1959年(昭和34年)に請求額の半額にあたる600万ドルが支給された。しかし、補償金の配分を巡って帰郷促進連盟は4つの派閥に分かれて対立し、補償金の配分が完了するのは1963年(昭和38年)になってからであった。
※この「帰島運動」の解説は、「アメリカ施政権下の小笠原諸島」の解説の一部です。
「帰島運動」を含む「アメリカ施政権下の小笠原諸島」の記事については、「アメリカ施政権下の小笠原諸島」の概要を参照ください。
- 帰島運動のページへのリンク