barとは?

バー [1] 【bar】

棒。棒状のもの。
横棒横木高跳びに用いる横棒やサッカー・ホッケーのゴール上端横木など。
バレエ練習で体を支えるための手すり。
重量挙げで,バーベルの棒。

バール [1] 【bar】

てこ・釘抜きなどに用いる棒状金属工具かなてこ
イタリア語から。喫茶店バーの意〕 気軽にワインを飲んだり,軽食をとることのできる店。

バール [1] 【bar】

圧力単位。一バールは1平方メートルあたりに10万ニュートンの力が働くときの圧力。一バール10万パスカル一気圧は1013.25ミリバール記号 bar. → パスカル

バル [1]スペイン bar】

バール

【BAR】(ぶろーにんぐおーとまてぃっくらいふる)

Browning Automatic Rifle

アメリカジョン・M・ブラウニング氏が設計開発した自動火器
名前の通り20連の着脱箱型弾倉使用する自動小銃であるとも言えるが、重量オープンボルト作動といった特徴機関銃寄りであり、実際火力を生かしたフルオート中心運用が為された。
当時言うと英軍ブレン軽機関銃現代言うと分隊支援用のLSWが近い。
歩兵の用いる小火器としてはかなり重量があったが、堅牢トラブル少なく、非常に重用された。

第一次/第二次世界大戦のほか、朝鮮戦争ベトナム戦争使用された。
また、NATOいくつかの国やアメリカ対外援助対象国などにも輸出され、国によっては1990年代まで使用していた所もある。
日本でも、陸上自衛隊1960年代まで使用していた。

M1ライフルM1903上回る火力発揮でき、重量も一応携行使用可能な範囲に収まっていたので、単発5連、乃至セミオート8連が主力だった当時には圧倒的であったことは想像に難くない

スペックデータ

種別自動小銃分隊支援火器
口径:7.62mm
全長:1,214mm
銃身長:610mm
重量:7.2~8.8kg
装弾数:20発(着脱箱型弾倉
使用弾薬.30-06スプリングフィールド弾
ライフリング:4条右回り
作動方式ガス利用オープンボルト
銃口初速:805m/s
発射速度300650発/分
有効射程:548m

バリエーション


BAR

英語 British American Racing

イギリスコンストラクター1997年F1チャンピオンジャック・ビルヌーブ個人マネージャーであるクレイグ・ポラックが、BAT(British Amarican Tabacco)をスポンサー得て98年設立ティレル買収するかたちで99年からF1参戦開始した(ドライバー一人ビルヌーブマシン開発レイナード設計陣が担当)。2000年からはホンダのワークスエンジンを使用しているが、最高成績は3位(2回)という不本意なものにとどまっている。

※「大車林」の内容は、発行日である2004年時点の情報となっております。

バール Bar

  パイプまたは鋼鉄製の棒で一端が曲がったり平坦に処理された0.5mから1.5m位のもの。その先端には釘抜きタガネ様のものが付いているものもある。隙間差し込んで重量物の移動に使ったり,パイプ様のものは工具差し込んでてこの原理利用してより大きな力を加えることが出来る。
バール
分野 櫓下工具
同義語 ばり
関連用語  
類似語 てこ棒, グースネックバール, クローバー, 直バール, タガネ
略語
バール
バール 出展 ABIT社のホームページ
バール
バール  
バール

バール crawbar, bar, var

①重い物を持ち上げ場合そのものの下に差し込んで「てこ」として用いる鉄製工具釘抜きしてまた型枠ばらすときにも使われる。「かなてこ」「かじや」「クローバー」ともいう。 ②その他圧力単位(bar)、無効電力大きさを表す単位(var)、などもある。

小節[bar]

縦線により区切られた部分。その中の拍数の合計はその曲の拍子等しくなる。

bar

圧力を示す単位
1bar=14.5PSI
1bar=1kgf/cm2
1bar=100Kpa

横木

読み方おうぼく
【英】:bar

飛越用の障害物に用いる横に渡し棒材。 

馬栓棒

読み方ませんぼう
【英】:bar

馬房出入り口をふさぐ横木鉄製アルミ製の物もある。 

バー Bar

バー (画像をクリックすると拡大します)  

Bar

名前 バーバールバル

BAR

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/16 22:29 UTC 版)

BAR, bar

BAR

bar

単語

関連項目


B・A・R

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/09 16:26 UTC 版)

B・A・R
参戦年度 1999 -- 2005
出走回数 117
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 227
表彰台(3位以内)回数 15
ポールポジション 2
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1999年オーストラリアGP
初勝利
最終勝利
最終戦 2005年中国GP
テンプレートを表示

B・A・R(ビーエーアール)は、かつて存在したイギリスF1コンストラクター。 1999年から2005年までF1世界選手権に参戦した。当初はチーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシング (British American Racing) とし、2003年からB・A・Rに改称した。「BAR」もしくは「B.A.R」と表記される場合もある[1]

2005年末に本田技研工業がチームの全株式を取得したため、2006年よりコンストラクターとしてF1参戦を再開したホンダF1に移行した。

歴史

チーム発足

ジャック・ヴィルヌーヴ

チーム発足への流れは、ジャック・ヴィルヌーヴCARTでチャンピオンを獲得した1995年に始まる。ヴィルヌーヴの個人マネージャーを務めていたクレイグ・ポロックと、ヴィルヌーヴが所属するチーム・グリーンにシャシーを供給していたレイナード、プレイヤーズブランドでチームを支援していたインペリアル・タバコの営業部長トム・モザーの間で、F1チームを設立する意見が交わされた[2]1996年、モザーがブリティッシュ・アメリカン・タバコ (British American Tobacco, BAT) のスポンサーシップ総責任者に就任し、資金提供を約束したことで、プロジェクトは実現に向けて動き出す[2]

1997年11月、ポロックは資金難にあったティレルを買収することを発表。1998年はティレルのままで参戦し、翌1999年からチーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシング(コンストラクター名はBAR)に変更した。BAT、ポロック、レイナードの3者が株式の共同所有者となり、ポロックがチーム代表に就任。BATが5年間で3億USドル(当時の為替レートで360億円)[2]という巨額の予算を計上し、レイナードがシャシー設計を担当した。チームはティレルの施設やスタッフを引き継がず、シルバーストン近郊のブラックリーに新ファクトリーを建設し[3]、既存チームのスタッフへヘッドハンティングを行って人材を集めた。エースドライバーには、当然のことながら1997年のF1チャンピオンドライバーであるヴィルヌーヴを迎えた。

「チーム・ヴィルヌーヴ」ともいえる誕生経緯、以前から噂されていたレイナードのF1進出の実現、世界第2位のタバコメーカーの全面支援など、チーム発足当初から話題性には事欠かなかった。一方、「初年度から優勝を狙う」という宣言やマシンのカラーリング問題(後述)など、ルーキーチームらしからぬ態度が批判や中傷を招くことになった。体制構築に際しては、経験値や開発時間などの既存のチームとの差を埋める方法を模索したが、新興チームとしての苦労が伴った。

1999年

参戦初年度はレイナードのマルコム・オースラーを中心に設計された001に、ルノーのカスタマー仕様であるスーパーテックV10エンジンを搭載。元F1チャンピオンのヴィルヌーヴと元国際F3000選手権チャンピオンのリカルド・ゾンタがレギュラードライバー、パトリック・ルマリエがテストドライバーという体制で出発した。

1999年はチーム力・マシン性能など、あらゆる面でF1の厳しさを学ぶシーズンとなった。レイナードはフォーミュラカー・コンストラクターとして参戦したすべてのカテゴリで緒戦に優勝するという「デビューウィン伝説」を誇っていたが、量販シャシーとF1マシンでは勝手が違った。また、ルノーワークスエンジン最終型をモディファイしたスーパーテックエンジンは、技術革新のスピードが速いF1の世界ではすでに競争力を失っていた。ドライバーはエンジンのパワー不足や振動などの問題を指摘し、運転しにくい上に車体に負担がかかり、さまざまな悪い影響が出ていると語った。

エースドライバーのヴィルヌーヴは予選トップ10に7度食い込んでみせたものの、開幕戦から11レース連続リタイアという不名誉な新記録を残してしまった。ゾンタはF1デビュー2戦目のブラジルGPで負傷し、続く3戦を欠場。この間、F1浪人中のミカ・サロが代役出場し、サンマリノGPで記録した7位が、チームの年間最高成績となった。ベルギーGP予選ではゾンタ、ヴィルヌーヴとも超高速コーナー「オー・ルージュ」で相次いで大クラッシュを喫し、マシンを大破させた。

シーズンを通じてマシンの信頼性不足に悩まされ続け、2台で合計31回出走したうち、完走扱いは10回しかなかった(2台揃ってチェッカーを受けたのは日本GPのみ)。優勝どころか年間通じて1ポイントも獲得できず、資金難にあえぐミナルディにさえ遅れをとり、コンストラクターズランキング最下位に甘んじた。

2000年

ホンダエンジンを搭載した002

2年目となる2000年はスーパーテックとのカスタマー契約を解消し、F1第3期活動を開始するホンダからワークスエンジンの供給を受けることになった。ホンダは当初予定していたフルコンストラクターとしての参戦計画を撤回し、車体の共同開発まで関与できるパートナーとしてBARを選んだ。ドライバーラインナップは前年と変わらず、ダレン・マニングがテストドライバーに加わった。

開幕戦は2台揃ってポイントを獲得。ヴィルヌーヴは予選でトップ10内に定着し(イタリアGPでは予選4位)、決勝では4位4回を含めて7戦で入賞した。シーズン合計20ポイントを獲得し、コンストラクターズランキングは5位に浮上した(4位のベネトンと同点)。

2001年

003を駆るヴィルヌーヴ(カナダGP)

3年目となる2001年は、リカルド・ゾンタに替え前年マクラーレンのテストドライバーとして高い評価を得ていたオリビエ・パニスを獲得した。また、イギリスF3選手権に参戦中のアンソニー・デビッドソン佐藤琢磨をテストドライバーに加えた。

第5戦スペインGPではヴィルヌーヴがチーム初の表彰台3位を獲得し、第12戦ドイツGPでも3位に入ったものの、全体としてチームの成績は低迷した。年間獲得ポイントは前年を下回る17ポイント、コンストラクターズランキングは6位でシーズンを終えた。

他方、ホンダはこの年からエンジン供給先を2チームに拡大し、ジョーダンにもカスタマー契約で同スペックのエンジンを供給した。結果を求めるエンジンメーカーとチームの間にしこりを残し、共同開発に影響を及ぼすことになった。

2002年

4年目の2002年は開幕前から激震に見舞われる。2001年12月にポロックがチーム代表を辞任し、代わってスバルWRC活動を統率してきたプロドライブの会長デビッド・リチャーズが新代表に就任した[4]。また、シーズン開幕後の2002年3月末には経営難に陥っていたレイナードが倒産し[5]、BAR創設者のうちBATを除く2者がチームを去ることになった。

ドライバーはヴィルヌーヴとパニスを継続したが、ポロックの離脱でヴィルヌーヴの地位は安泰ではなくなった。テストドライバーはジョーダンのレギュラーシートを獲得した佐藤に代わり、フランスF3チャンピオンの福田良が加入した。

2001年にウィリアムズから加入したジェフ・ウィリスが開発責任者となったが、体制刷新の効果はすぐには表れなかった。入賞わずか4回(決勝最高位は4位)、獲得ポイントは7点にまで落ち込み、コンストラクターズランキングは8位に転落した。

ホンダはジョーダンとの3年契約を1年残して打ち切り、B・A・Rとのパートナーシップを2004年末まで延長して、チーム運営により深く関わることになった。

2003年

005を駆るヴィルヌーヴ(アメリカGP)

2003年のシーズン開幕前にチーム名称を「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」から「B・A・R」に変更。ドライバーはオリビエ・パニスに替わり、ルノーからジェンソン・バトンが加入した。また、ジョーダンのシートを失った佐藤を再びテストドライバーとして迎えた。

ウィリスが手掛けた新車005は空力面で進歩し、ブリヂストンタイヤとのマッチングに悩まされたものの、中団争いではそこそこの戦闘力を発揮した。バトンがコンスタントに結果を残してルノー時代のスランプを払拭する一方、ヴィルヌーヴはリチャーズとの関係が悪化し、高額のサラリーがネックとなって契約延長交渉が難航した。

最終戦日本GP開催直前には翌年からヴィルヌーヴに代わり佐藤がレギュラードライバーに昇格することが発表され、ヴィルヌーヴは急遽参戦を取りやめる事になった。佐藤は前倒しでレースに出場し、バトンと共にポイントを獲得。コンストラクターズポイントを26点に伸ばし、ザウバーを抜いてランキング5位を獲得した。

2004年

アメリカGPで3位表彰台を獲得した佐藤。マシンは006

2004年シーズンは、佐藤がヴィルヌーヴに代わってレギュラードライバーに昇格し、バトンとコンビを組む。金曜日のフリー走行ではアンソニー・デビッドソンが3台目のマシンをドライブした。

この年は参戦初年度から契約してきたブリヂストンに替えてミシュランタイヤを装着し、フリー走行のサードカールール[6]を活用して、タイヤ性能を上手く引き出した。バトンは自身初を含めて10度の表彰台を獲得し、サンマリノGPではチーム初のポールポジションとチーム歴代最高位の2位を獲得した。佐藤もアメリカGPで日本人14年ぶりとなる3位表彰台を得たほか、ヨーロッパGPの予選でフロントロー2位を獲得するなど健闘した。マクラーレンウィリアムズなどの名門チームの不調もあり、終盤戦には調子を落としたルノーを振り切り、コンストラクターズランキング2位(119点)で大躍進のシーズンを終えた。

しかし、シーズン中盤のドイツGP直後に、バトンがウィリアムズへの移籍を突然発表。これに対してチーム側は当該契約は無効であるとして、契約承認委員会に審査を申し立てる事態となった。結局、ブラジルGP直前にB・A・R側の言い分が認められ、バトンは2005年もチームに残留した。

国際的なたばこ広告禁止運動の影響でBATのF1撤退が囁かれるようになり[7]、チームの処遇に関するBATとホンダの動向が注目された。ホンダは7月にエンジン供給契約を2007年末まで延長することに合意し、シーズン終了後の11月19日には、本田技研工業がB・A・Rに資本参加することが決定した。BATが55%、ホンダが45%を出資してBARHリミテッド (BARH Ltd.) を設立し、BARチームを取得する形となる[8]。また、同時にプロドライブとBATの提携が解消され、リチャーズらはチームを去った。

2005年

007を駆るバトン(アメリカGP)

チームを去ったデビッド・リチャーズの後継としてプロドライブのニック・フライがチームCEOに就任。また、サンマリノGPからはジル・ド・フェランをスポーティング・ディレクターとして招聘した。

B・A・Rは2004年シーズン開幕前と同様に、前年型シャーシに2005年用パーツを組み込んだハイブリッドマシンで冬季テストに臨んだが、前年ほど好タイムを連発、という事はなかった。開幕後もマシンの熟成は十分でなく、開幕戦のオーストラリアGPから第3戦バーレーンGPまで1ポイントすら獲得できないと言う事態に陥った。

カタロニアポール・リカールのテストで非公式コースレコードタイムを更新して、迎えた第4戦サンマリノGPではバトンが3位、佐藤は5位でフィニッシュし、前年の競争力が復活したように見えた。しかしレース終了後の車検で重量規定違反を問われて失格となり、獲得した10ポイントを剥奪されたばかりでなく、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPも出場停止処分が下された(詳細はB・A・R 007を参照)。

この様に前半戦は惨憺たる成績であったが、バトンが第8戦カナダGPでポールポジションを獲得、第10戦フランスGPから最終戦中国GPまで10戦連続ポイント獲得(第12戦ドイツGPと第16戦ベルギーGPでは3位表彰台)と後半戦では見事に復調した。これに対して、佐藤は不振をきわめ、年間でハンガリーGPでの1ポイントのみしか獲得できなかった。コンストラクターズ年間順位は6位(38点)。

この間、前年から引きずってきたバトンとの契約問題は、ウィリアムズ側が一貫して保有権を主張するも、2005年のウィリアムズのパフォーマンスの低さを見たバトンが一転して残留を望んだことから、依然として解決しないままの状態が続いた。チームはバトン移籍という事態へのリスク管理のため、ルーベンス・バリチェロと2006年のドライバー契約を結んだ。9月末のブラジルGP直前、バトンがウィリアムズへ違約金を払うことで契約解除を勝ち取り、2006年もチームに残留することが決まったが、結果的に、バトンの離脱を前提に交渉していた佐藤がチームを去ることになった。

一方ヨーロッパではたばこ広告規制の強化が進み、ハンガリーGPの決勝日(7月31日)以降はたばこ広告が禁止されていない国のレースであっても、ヨーロッパでテレビ放映されれば違反に問われる、という話がささやかれた(実際にはこの件はその後うやむやとなる)。こうした流れを受け、BATはチーム運営から降りることを決断し、10月4日にBARHリミテッドの株式持分55%全てをホンダに売却した[9]。BARチームを取得したホンダは、翌年から自社名義のフルワークスチームに変更して参戦することを発表。これにより、B・A・Rの7年間のF1活動に終止符が打たれることとなった。

変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 最高位
1999年 ブリティッシュ・アメリカン・レーシング 01 B スーパーテックFB01 エルフ ジャック・ヴィルヌーヴ
リカルド・ゾンタ
ミカ・サロ
11 8位
2000年 ラッキーストライクレイナード・ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・BAR・ホンダ 002 B ホンダRA000E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
リカルド・ゾンタ
5 4位
2001年 ラッキーストライク・レイナード・ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・ホンダ 003 B ホンダRA001E エネオス オリビエ・パニス
ジャック・ヴィルヌーヴ
6 3位
2002年 ラッキーストライク・レイナード・ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・ホンダ
ラッキーストライク・ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・ホンダ
004 B ホンダRA002E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
オリビエ・パニス
8 6位
2003年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 005 B ホンダRA003E エネオス ジャック・ヴィルヌーヴ
ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
5 4位
2004年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 006 M ホンダRA004E エネオス ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
2 2位
2005年 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ 007 M ホンダRA005E エネオス ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
アンソニー・デビッドソン
6 3位

歴代の体制

エピソード

チーム名
ブリティッシュ・アメリカン・レーシングという名称は親会社ブリティッシュ・アメリカン・タバコと同一性を持たせることで将来のたばこ広告規制をかわす目論見があったと言われている。インターネット上の公式サイトも当初はwww.britishamericanracing.comというアドレスだった。
当初はフルネームにこだわる傾向があったようで、2000年には「Lucky Strike Reynard British American Racing BAR Honda」という名称でエントリーした。あまりにも長すぎたためか、2001年はBARを省いて「Lucky Strike Reynard British American Racing Honda」、2002年のレイナード倒産後は「Lucky Strike British American Racing Honda」とした。2003年からチーム名をコンストラクター名の「B・A・R」に合わせ、「Lucky Strike B・A・R Honda」の名前でエントリーした。
2つのカラーリング
001のカラーリング(1999年)
007の中国GP限定555カラー(2005年)
参戦初年度の1999年1月に行われた新車発表会で、B・A・Rの2台のマシンはラッキーストライク(ヴィルヌーヴ)とState Express 555(ゾンタ)というBATの2つの異なるタバコブランドのカラーリングに塗り分けられて登場した。CARTシリーズなどではよくある広告方法だが、F1では同一チームのマシンは単一のカラーリングにしなければないというルールがあった[10]。チームはスポンサーの権利を主張して国際自動車連盟 (FIA) を相手に訴訟を起こしたが、最終的に使用を断念し、代案としてマシンの左右を異なるカラーリングに塗り分けるという奇抜な方法をとった。車体左半分がラッキーストライクの赤、右半分が555の青、ノーズは銀色という配色で、第2戦から中央部にファスナーが描かれた。
2年目以降はラッキーストライクカラーに一本化されたが、BATが中国国内では555ブランドを展開していたため、中国グランプリ限定で555カラーのマシンが登場した。2004年はサードカーのみ青色にペイントして出走。B・A・Rとして最後のレースとなった2005年は、2台のレースカーのカラースキームを555カラーにした。
"a tradition of excellence"(華麗なる伝統)
1998年、翌年からの参戦に先立ちチームロゴマークが発表された際に添えられたフレーズ。新規発足するチームが「伝統」を名乗る意図は不明だったが、このロゴマークは買収したティレルのマシンのノーズコーン先端にも付けられており、ティレルの歴史を継承するという意味が考えられる。しかし、ティレルの買収は参戦権の確保が目的であり、ティレルの名で1998年を戦ったのはコンコルド協定の手続きに関わる移行期間に過ぎない。ケン・ティレル以下スタッフはB・A・Rへの移行前にチームを去ることになり、F1関係者やファンから敬意を集めていた名門チームへの冷遇に対して、反感を覚える者も少なからずいた。
なお、ハーベイ・ポスルスウェイトら元ティレルのエンジニアはホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) に移籍し、F1準備用のテストカーホンダ・RA099を開発した(製造はダラーラ)。しかし、ポスルスウェイトの急死後、ホンダは計画を変更してBARとのジョイントを発表。HRDはイギリスの前線基地としてBARと働くことになった。
プロ意識
参戦当初からトップチーム並みに自前の風洞設備を持つなど体制的には恵まれていたが、チーム代表のポロック以下、戦うプロ集団としての意識の欠如が問われていた。予算を費やしながら一向に成績が上向かないB・A・Rの運営法を皮肉ったメディアから、British Amateur Racing (イギリスのアマチュアチーム)と呼ばれた。

脚注

  1. ^ ホンダF1アーカイブでは2001年までが「BAR Honda」、2002年は「B.A.R Honda」、2003年から2005年は「B・A・R Honda」と表記されている。
  2. ^ a b c 赤井邦彦「夢を叶える力。-BARに見る、F1新チーム設立までの挑戦」、『F1倶楽部』第22号、双葉社、1998年11月、 23頁。
  3. ^ ブラックリーのB・A・R旧施設はホンダ、ブラウンGPを経てメルセデスGPのシャシー部門開発拠点となっている。
  4. ^ “BARホンダ、2002年体制を発表”. web CG. (2001年12月19日). http://www.webcg.net/WEBCG/news/000011007.html 2012年4月4日閲覧。 
  5. ^ “レーシングカーコンストラクター「レイナード」倒産”. web CG. (2002年4月1日). http://www.webcg.net/WEBCG/news/000011328.html 2012年4月7日閲覧。 
  6. ^ 2003年のコンストラクターズランキング5位以下のチームは、金曜日のフリー走行に3台のマシンで出走することが許され、より多くのセッティング情報を収集することができた。
  7. ^ “【ホンダF1ストーキング】スポンサーBATが撤退へ……たばこ広告禁止より早く”. レスポンス. (2003年4月18日). http://response.jp/article/2003/04/18/50426.html 2012年4月9日閲覧。 
  8. ^ “HondaとBATの新合弁会社がB・A・Rを取得”. 本田技研工業. (2005年1月11日). http://www.honda.co.jp/Racing/news/04f1/15/ 2012年4月9日閲覧。 
  9. ^ “Honda、BARH Ltd.の株式を全額取得” (プレスリリース), 本田技研工業, (2005年10月4日), http://www.honda.co.jp/news/2005/c051004.html 2012年4月9日閲覧。 
  10. ^ この決まりは「慣例」として存在していたが、1998年10月のF1委員会で正式にレギュレーション化されていた。

関連項目

外部リンク


バー (酒場)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/12 15:34 UTC 版)

(bar から転送)

スイスのバー、この名で呼ばれるもののもっとも典型的なもの

バーbar)とは酒場、飲酒店のことである。

日本で「バー」という看板が掲げられる場合、カウンターカクテル水割りなどを中心に出す店を指すことが多い。

分類

日本では、特にグラス1杯ずつ提供するタイプのバーをショットバー(若しくはショット)という(和製英語)。メイドバーガールズバーボーイズバーシングルスバーも形態としてはショットバーに含まれる。

その他には、バー形態ではあるがカクテル等ではなく別の酒類を中心に提供する店舗がある。例として焼酎を提供する焼酎バービールを提供するビアバーなどがある。これらの店舗には、まったく他の酒類を置かない店舗と他の酒類も置いている店舗が存在する。

スクリーンゴルフができるゴルフバービリヤードができるプールバーダーツができるダーツバーではお酒のみならず競技を楽しむ目的で利用される。また大画面テレビ等のスポーツ観戦の中継を行う機器を設置しているスポーツバーという業態もあるほか、鉄道をテーマにした鉄道バー(もしくはカフェ)やラジコンバー[1]などがある。文壇バーというのが(新宿ゴールデン街に特に多く)あるが、これは作家や出版社の編集者を常連客に持つことから来ており、趣味人が集まるわけではない。

また酸素バーという飲食物を提供しない施設も存在するが、アルコール類の代わりに酸素を「提供する施設」の意味で「バー」の語を用いたものと考えられる。

語源

酒場としての「バー」の語源には諸説ある。下記はアメリカにおけるバーの歴史に結び付いた説である。

  • カウンターの原形が横木であり、酔っぱらいが酒樽から勝手に呑むのを阻止するために用意された。
  • 酒場の外に、をつなぐための横木が備えられていたことから。ここから、隠語として広まった。
  • 騎馬の時代が終わり横木が不要になったが、ある酒場の店主は改装の折りにそれを棄てずにおきカウンターの下に置いておいた。するとそれが「片足をかけるのに丁度良い」ということで評判となり、他の店も真似るようになった。そうしていつしかバーは酒場の代名詞となり、現代に至るという。

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 表参道ヒルズの「KYOSHO OMOTESANDO」、アキバ・トリムの「KYOSHO AKIHABARA」などがある。

関連項目






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