日本の右翼団体
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歴史
明治以降
日本の右翼思想が確立するのは明治時代であるが、その源流は、江戸時代後期の国学者の一部が標榜した国粋主義や皇国史観などが挙げられる。また日本の右翼団体の起源は、1868年(明治元年)1月3日の明治維新(王政復古の大号令)だと目される。これを14年遡った1854年(安政元年)3月31日に、江戸幕府13代将軍徳川家定が鎖国を撤廃した時、勤王反幕の政治家が勢力を増した。幕末に生み出された大量の尊王派の志士の組織活動は、維新の成功によりいったんは政権に組み込まれ消失する[注釈 1]。
画期となるのは征韓論事件を境とした九州・山口でおこった一連の士族反乱である。西郷を敬愛し国学・朱子陽明学の実践を願いながらも死にそびれ、あるいは取り残された者たちの在野集団が1881年(明治14年)に頭山満らが結成した玄洋社であり、これが日本の観念右翼のはじまりとされている。
1880年代に自由民権運動が発生し、激しい反政府運動が盛り上がった。明治政府は自由民権運動を公権力で取り締まったが、次第に任侠集団は政治的思想に基づく団体を結成させ、民権運動を支援する活動を行った[3]。1910年代になると、社会主義運動の高まりと共に労働争議、小作争議が各地に広まり、政界、財界からの要望により、任侠系の政治団体がそれらの運動妨害、弾圧運動に大きな役割を果たした。この系統を引く団体は、大日本国粋会などに代表され「官製右翼」と呼ばれ、非合法的な雰囲気は無く、有爵者や神主、警察庁長官までもが役員として名を連ねた[3]。これらの官製右翼は、明治の元勲たちとも結びつきが強く、社会主義に対抗して、皇国思想によって国家を擁護する右翼団体となった[3]。
また、近代化の過程で生じた諸矛盾を解決を目指す政治団体として、平等を目指す2つの流れが生じた。一つは社会主義革命により平等を目指そうとする流れ。もう一つは天皇の下に万民は平等であるとする流れである。これは、日清戦争や日露戦争を背景に、中華民国の成立や李氏朝鮮の近代化に関与した大アジア主義の潮流に乗る。また、社会主義の影響もとで国家主義によるアジアの近代化の実現を目指したために社会主義との接近をも起こし、その思想潮流はいわゆる国家社会主義や社会主義との複雑な影響の元にあった。思想的傾向は、必ずしも反共主義ではなく、反欧米色が強かった。この系統を引く団体は、「正統右翼」などと称される。
財界の要望に立ち労働運動を弾圧する「任侠右翼」(暴力団系右翼)と、理想を掲げて凡アジア的活動を行う「正統右翼」は、戦前の右翼団体の2つの大きな系統であった。これらは利害が一致する財界、軍部から資金援助を受けて活動をしていたと田中隆吉は述べている[9]。
世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い[10]、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる[10]。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。右翼は大東亜戦争(太平洋戦争)直前に締結された日独伊三国軍事同盟については支持する立場を採ったが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに対しては、自由主義や社会主義と同様の外来思想と受け止められ、東方会などの一部の団体を例外として大半からは無関心もしくは排斥の対象として捉えられていた[11]。
第二次世界大戦終結後
1945年(昭和20年)に日本政府は降伏文書に調印した(第二次世界大戦での日本の降伏)。GHQにより多くの右翼団体は軍国主義の温床と見なされ、弾圧を受けた。また、右翼団体のパトロンであった軍部の消滅、財閥解体、農地改革による地主層の没落により、資金面でも厳しい局面に追い込まれた。これにより革新右翼の流れを汲む民族派右翼(陸軍系)は衰退し、親米右翼の流れが増えていった。
冷戦時代
アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれた戦後混乱期には、GHQ主導で上からの民主化が進められたものの、東京裁判が終わると今度は冷戦が始まり反共主義による「逆コース」が進み、公職追放を受けた者が続々と政界に復帰した。すると、日本の再軍備化が検討されるようになり、公職追放解除や朝鮮戦争への日本の協力として旧軍人への法務府特別審査局の聞き取りなどがおこなわれ、それまで沈黙を保っていた旧軍人や右翼活動家も発言をおこなうようになった。再軍備にむけた旧軍人の組織的な活動は1951年(昭和26年)8月の大量の追放解除以降に活発化し、おおむね以下の5派が展開された。
- 皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」
- 具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定らの「正義派」
- 連合国との協力を変節者と見なしこれに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」
- 反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次の「募兵派」
- 制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」
最初の組織化は前年に公職追放を解かれた赤尾敏による、1951年(昭和26年)10月に結成された大日本愛国党であるが、すでにその半年前の2月には第一回愛国者団体懇親会などができあがっており、また1952年(昭和27年)からは右翼団体が続々と設立された[12]。
これらは冷戦にともなう「防共の砦」としての日本の防衛に危機感を持ったGHQの意向に適うものであり、左翼思想を統制する「逆コース」とも呼ばれた。1951年(昭和26年)には、日本国粋会初代会長・森田政治の申し出を受けて、木村篤太郎法務府総裁(後に法務大臣)が当時の金額で3億数千万の予算をつけ、テキ屋、暴力団、右翼をまとめた私兵「反共抜刀隊」を政策として立案したが、吉田茂首相に相手にされずに頓挫した。
占領期が終わると各右翼は天皇中心主義・反共主義・反社会主義・再軍備促進・憲法改正などのそれぞれの主張を標榜し、活動を再開した[13]。これら戦後の右翼団体の大きな特徴としては「反共親米」路線を挙げることができる。
安保闘争中の1960年(昭和35年)にはドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領来日を歓迎・支援するために、自民党安全保障委員会が、全国のテキ屋、暴力団、右翼を組織して「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げ、左翼の集会に殴り込みをかけさせた。これらの動きに伴い、黒塗りの街宣車で大音量の軍歌を流す、典型的な「街宣右翼」が登場した。1992年(平成3年)の暴力団対策法施行以降は、暴力団組織が右翼団体に資金を提供、もしくは政治団体に衣替えする事例が続発し、右翼が国家に対抗し反権力を主張する状態になっている。街宣右翼は、相手を“反日”と断じたならば街宣をかけるというその性質から、様々な批評がされている。
任侠右翼の系譜としては、戦後しばらくして海軍と三菱財閥の流れを汲む利権に結びついた山口組系右翼の活動が目立った。彼らは海軍・三菱と共に長崎から船に乗って広島、神戸、横浜など造船所・港町を伝って全国へ広がった。天皇を立てた主張が近いため両者の識別は難しいが思想・活動目的、資金源は全く異なる。概ね親米か反米かで区別できる。戦後から昭和期にかけては児玉誉士夫のように政財界の黒幕として利権政治や談合に関与し、あるいは総会屋や仕手筋などとして暗躍するものもいたが次第に退潮した。正業を持たず資産家の資産を守る用心棒まがいのことをしたり、食客まがいの者もある。
他方では、1960年代後期から、「新右翼」や「民族派」と呼ばれる、街宣車を用いないか一般車のような外見の街宣車で演説をする活動に切り替える右翼活動家が現れ始めた。彼らは「反共」一辺倒の思想や暴力行為や大音量による宣伝活動に従来の観念右翼や街宣右翼に反発し、トークセッションに出演したり論壇誌に数ページの連載を持ったりする論理的な言論活動で日本や民族を訴える活動をしている[14]。この背景には、従来型の右翼の黒幕である児玉誉士夫のロッキード事件での多額の蓄財の発覚や、三島事件、経団連襲撃事件などを契機とした、体制寄りの腐敗した「既成右翼」への反発がある。彼らは「反共反米反体制」や、場合によっては「民主主義、市民主義」を主張し、思想的には戦前の「正統右翼」との共通点も大きい。
冷戦後
冷戦時代には暴力団とつながった体制寄りの親米右翼が多かったが、冷戦終了後に施行された暴力団対策法や各地の暴力団排除条例により衰退し、反体制的な反米右翼も相対的に目立つようになっている。
21世紀に入ってからは在日特権を許さない市民の会に代表される、嫌中(反中)・嫌韓(反韓)・反露を軸とした市民運動的スタイルの「行動する保守」が台頭し、街頭デモやインターネットを利用した「排外主義」的な宣伝活動で、国連の人種差別撤廃委員会を初め、国内外から批判されている[15][16][17]。一方、神州蛇蝎の会のように「日韓連携」を訴える[18] 団体も存在する。
注釈
- ^ 明治初年は戊辰戦争が決着しておらず、また尊攘派や脱藩浮浪問題は解決しているとはいえず、明治新政府による天皇行幸(東行)すら新政府中枢による政治の壟断として反論が噴出する状態であった。「久留米と肥後大に関係之様子に而、浮浪をこぶし則今攘夷之議を申立、迂活之ものは大に為其惑わされ候ものも不少、随面御発輦之事を疑惑を立、宮堂上等方へ迫り建言いたし、宮堂上方もまた為其に駆使せられ頻に奔走、一時其混乱不用意」(木戸孝允書簡、明治2年3月10日)。尊王派の不穏な動きには一部の公家や脱藩浮浪が結びつく傾向があった。『東京「遷都」の政治過程』佐々木克(京都大学人文學報 1990年)[1] P.60(PDF-P.21)。二卿事件も参照。
- ^ 日本人拉致問題などでの従来の日本政府の外交政策における姿勢や中国・韓国への『謝罪外交』を弱腰、土下座外交として批判している。
- ^ 1982年(昭和57年)9月、歴史教科書問題でベトナム共産党の機関紙「ニャンザン」に日本にとって批判的とされるような記述があった
出典
- ^ 猪野健治『日本の右翼』
- ^ 「右翼―3.第二次世界大戦前の日本における右翼運動とファシズム」 小学館日本大百科全書
- ^ a b c d e f “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
- ^ a b 2006年(平成18年)10月19日東京・外国特派員協会での講演にて。ビデオニュース・ドッドコム
- ^ a b c Paul Baylis, "Korean activist braces for `storm of fascism'"
- ^ 「今こそ日本的変格を目指す右翼民族派が立つ時」『朝まで生テレビ!激論!日本の右翼』全国朝日放送、1990年
- ^ a b 李鳳宇『パッチギ!的 世界は映画で変えられる』岩波書店、2007年(平成19年)、p192
- ^ a b 岡留安則『噂の真相25年戦記』集英社新書、2005年(平成17年)、p58。
- ^ 田中『敗因を衝く―軍閥専横の実相』中公新書。
- ^ a b 『世界大百科事典』 平凡社、2007年(平成19年)、「右翼」の項目
- ^ 『国史大事典』第2巻 吉川弘文館、1980年(昭和55年)、「右翼運動」の項目(執筆者:高橋正衛)
- ^ 「再軍備ナショナリズムの出現と展望」南基正(東北大学大学院法学研究科 渥美財団21世紀東アジア研究フォーラム)[2] (PDF) P.4
- ^ 平凡社『世界大百科事典』1988年(昭和63年)
- ^ 野村秋介、見沢知廉、四宮正貴、鈴木邦男、木村三浩など。
- ^ 安田浩一氏「在特会は崖っぷち状態まで追い詰められている」│NEWSポストセブン
- ^ 国連人権委、ヘイトスピーチ禁止勧告 日本に実行求める:朝日新聞デジタル
- ^ 法務省:ヘイトスピーチに焦点を当てた啓発活動 ヘイトスピーチ,許さない。
- ^ 東京でも「金正恩を許すな」統一日報
- ^ 「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」。所収、今井清一・高橋正衛編『現代史資料4国家主義運動』みすず書房、1988年(昭和63年)。
- ^ 右翼学生調査に文部省着手 問題は愛国学生連盟 東京朝日新聞 1932.3.20 (昭和7)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 堀幸雄『戦後の右翼勢力』勁草書房、1983年(昭和58年)。
- ^ 日本を知るには裏社会を知る必要がある(菅沼光弘講演 外国特派員協会、2006年10月19日)ビデオニュース・ドッドコム2006年(平成18年)10月27日
- ^ 「今こそ日本的変格を目指す右翼民族派が立つ時」『朝まで生テレビ!激論!日本の右翼』全国朝日放送、1990年(平成2年)
- ^ 私が参加する集会は大丈夫か―右翼暴力から表現の自由をどう守るか 弁護士毛利正道
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