Rem_とは? わかりやすく解説

レム【rem】

読み方:れむ

放射線の線量当量の単位。現在はシーベルトを標準単位とする。1レムは、1シーベルトの100分の1で、1ラドのX線が吸収されたときに生体に及ぼす効果と等しい効果を示す放射線量。記号rem


レム【REM】

読み方:れむ

《rapid eyes movement》「レム睡眠」の略。「ノン―」「―期」


Rem

名前 レム

Rem_

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 17:56 UTC 版)

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「Rem_」
ナイトメア の シングル
初出アルバム『NIGHTMARE』
リリース
録音 2009年
ジャンル J-POP
レーベル Vap
プロデュース ナイトメア
チャート最高順位
ナイトメア シングル 年表
NAKED LOVE
(2008年)
Rem_
(2009年)
a:FANTASIA
(2010年)
収録アルバム『NIGHTMARE』
RAY OF LIGHT
(6)
Rem_ -reprint ver.-
(7)
Cherish
(8)
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「Rem_」(レム)は日本のヴィジュアル系ロックバンド・ナイトメアの15枚目のシングル。

概要

  • 2009年9月22日に発売。
  • 3タイプ同時発売であり、初回限定盤Aには「Rem_」初回限定盤Bには「love addict」のビデオクリップを収録したDVDが付属する。
  • オリコン週間チャートでは初登場3位を記録し「レゾンデートル」以来のTOP3入りを果たし、初動は18,967枚を記録し、本作でTOP3入りは2作目になる。
  • 7枚目のアルバム『NIGHTMARE』に収録されているが、再録して収録されている。

収録曲

  1. Rem_(作詞・作曲:咲人)
    日本テレビ系「フットンダ」10月エンディングテーマ
  2. love addict(作詞・作曲:RUKA)



R.E.M.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/10/06 05:13 UTC 版)

R.E.M.
左からマイク・ミルズ、マイケル・スタイプ、
ビル・リーフリン(サポート・ドラマー)、ピーター・バック
(2003年のイタリア・パドヴァ公演より)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジョージア州アセンズ
ジャンル オルタナティヴ・ロック、インディー・ロック、フォークロック、ジャングル・ポップ、ポストパンク
活動期間 1980年 - 2011年
レーベル Hib-Tone
I.R.S. Records(英語版)(ユニバーサル ミュージック グループ)
ワーナー・ブラザース・レコード
公式サイト www.remhq.com
メンバー マイケル・スタイプ
ピーター・バック
マイク・ミルズ
旧メンバー ビル・ベリー

R.E.M.(アール・イー・エム)は、1980年にアメリカ合衆国ジョージア州アセンズで結成されたオルタナティヴ・ロック・バンド。マイケル・スタイプ(ボーカル)、ピーター・バック (ギター)、マイク・ミルズ(ベース)、ビル・ベリー (ドラム)の4人によって結成され、ベリーが1997年に脱退した後は、残る3人を中心に2011年まで活動した。

ポストパンクの簡潔な演奏、1960年代のフォークロックやガレージロック、バックのアルペジオを多用したギター、ミルズの旋律的なベースとハーモニー、スタイプの不明瞭で暗示的な歌詞を組み合わせた音楽性で知られる。結成当初からカレッジ・ラジオと継続的なライブ活動を通じて支持を広げ、1983年のデビュー・アルバム『マーマー』は高い評価を受けた。1980年代には『夢の肖像』『玉手箱』『ライフズ・リッチ・ページェント』『ドキュメント』を発表し、アメリカのインディー・ロックと後のオルタナティヴ・ロックの発展を先導した。

1988年にI.R.S.レコードからワーナー・ブラザース・レコードへ移籍し、『グリーン』で国際的な人気を獲得した。1991年の『アウト・オブ・タイム』とシングル「ルージング・マイ・レリジョン」によって世界的な成功を収め、続く『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』『モンスター』も大きな商業的成功を記録した。「ザ・ワン・アイ・ラヴ」「スタンド」「エヴリバディ・ハーツ」「マン・オン・ザ・ムーン」などの楽曲でも知られる。

また、環境保護、人権、選挙参加などの社会問題にも継続して関与した。2007年にロックの殿堂入りを果たし、2011年9月、メンバー間の対立を伴わない友好的な解散を発表した。以後も再発企画や記念行事では協力を続けているが、本格的な再結成は一貫して否定している。

メンバー

マイケル・スタイプ(ボーカル)

マイケル・スタイプ

ジョン・マイケル・スタイプは1960年1月4日、アトランタ郊外のディケーターに生まれた。父親がアメリカ陸軍に勤務していたため、一家はジョージア州、アラバマ州、テキサス州、西ドイツ、イリノイ州などを転々とした。頻繁な転居のなかで内向的な性格となり、姉妹をはじめとする家族との強い結びつきを形成した[1]。

しかしその反面、音楽好きで、ロック・スターとして名声を得る野心をだいていた。友人とエアロスミスやレッド・ツェッペリンなどのレコードを聴きながら、どちらが先に音楽雑誌『クリーム』に掲載されるかを語り合い、ロック・スターをまねた衣装で写真を撮っていた[2]。後年、当時の心境について「本当に、とんでもなく有名になりたかった」と回想している[3]。

音楽への関心を決定づけたのは、15歳のときに初めて購入したパティ・スミスのアルバム『ホーセス』だった。スタイプはスミスの音楽と容姿に強い衝撃を受け、彼女の作品を通じてヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ニューヨーク・ドールズ、テレヴィジョンなどのニューヨークのアンダーグラウンド・ロックへ関心を広げた[4]。後に「地面が存在しないような感覚だった。その瞬間、まだ一曲も書いたことのない15歳の傲慢さで、自分が人生で何をするのかを決めた」と述べている[5]。

1978年に一家がジョージア州へ戻ると、翌1979年にジョージア大学に入学し、同大学の芸術学部で写真と絵画を学び始めた。依然として一人で音楽を聴いたり、読書をする生活を送っていたが、絵画に秀でた才能はあったという。一方で地元のパーティーや音楽活動にも加わるようになり、当初はアセンズの音楽シーンを洗練されていないものと見ていたが、パイロン(英語版)の演奏に接して考えを改め、自らもバンドを結成する可能性を探るようになった。そしてその頃に出入りしていたレコード屋で働いていたのが、ピーター・バックだった[6]。

ピーター・バック(ギター)

ピーター・バック

ピーター・バック は1956年12月6日、ロサンゼルスに生まれ、幼少期をサンフランシスコ・ベイエリアで過ごした。子供のころからラジオを通じてビートルズ、スプリームス、モンキーズなどに親しみ、小遣いの大半をレコードの購入に費やした。その後、一家はインディアナ州を経て、1970年にジョージア州ロズウェルへ移住した。10代になるとキンクス、ザ・ムーヴ、ローリング・ストーンズ、T・レックス、スレイドなどを聴くようになった[7]。

1970年代半ば、バックの将来を方向づける二つの出来事があった。一つは、中古品販売で偶然手に入れたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを聴き、簡潔な演奏と反復が生み出す効果に強く引かれたことである。もう一つは、ニューヨーク・ドールズの公演を見て、優れた演奏技術がなくても力強い音楽を作れると気づいたことだった。これらの経験をきっかけに、自ら音楽を演奏することを意識し始めたが、クラシック音楽を学んでいた弟と自分のギター技術を比較して自信を失い、この時点では本格的な活動に踏み出さなかった[7]。

1975年に高校を卒業すると、アトランタのエモリー大学へ入学した。しかし、大学の環境になじめず、パティ・スミスの公演に強い刺激を受けたこともあり、1年足らずで中退した。その後は音楽評論家になることを夢見ながら、アトランタのレコード店ドゥー・ダーズ、次いでワクストリー・レコードで働き、ラモーンズ、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、テレヴィジョンやイギリスのパンク・ロックに親しんだ[8]。

1977年末、バックはエモリー大学でB-52'sのアトランタ公演を企画した。アセンズから訪れたバンドと観客の個性的な雰囲気に引かれ、同年末にワクストリー・レコードのアセンズ店へ転勤。レコード店には学生や芸術家、地元の音楽関係者が集まり、バックは短期間でアセンズの新しい音楽共同体に加わった。店内でレコードに合わせてギターを弾きながら、共にバンドを組める相手を探すようになった[9]。

そんな頃に出会った客が美人の若い女性を二人も引き連れているマイケル・スタイプだった。二人の女性は、マイケルの姉妹のリンダとシンディだった[10]。

マイク・ミルズ(ベース)

マイク・ミルズ

マイク・ミルズは1958年12月17日、カリフォルニア州オレンジ郡で生まれ、幼少期に一家でジョージア州メイコンへ移住した。父親はテノール歌手、母親も歌手で、ピアノとギターを演奏する音楽一家で育った。幼少期からピアノを学び、高校ではマーチングバンドに参加して、当初はスーザフォン、のちにエレクトリックベースを担当した[11]。

ミルズは中学生のころからビル・ベリーを知っていたが、当初、2人は互いを嫌っていた。しかし高校時代、ベリーが参加した放課後のセッションで偶然共演したことをきっかけに親しくなり、その後は学校のマーチングバンド、音楽教師が率いるラウンジ・トリオ、シャドウファックスやバック・ドア・バンドなどで共に活動した。結婚式やカントリークラブでも演奏し、17歳のころには1回の出演でそれぞれ60ドルを得ていた。レパートリーはフレディ・キング、ミーターズ、ドゥービー・ブラザーズ、レーナード・スキナードなどのカバーが中心で、この時期にミルズとベリーは緊密なリズム・セクションを形成した[12]。

高校卒業後は大学へ進学せず、ベリーとアパートで共同生活を始め、地元の百貨店シアーズに勤務した。ベリーが芸能事務所パラゴンで知り合った音楽エージェントのイアン・コープランド(英語版)[13]を通じて、ミルズはダムド、ラモーンズ、デッド・ボーイズ、セックス・ピストルズなどのパンク・ロックに接した。サザン・ロック中心のメイコンの音楽環境に飽きていたミルズは、これらの簡潔で勢いのある音楽に刺激され、再びバンド活動への関心を強めた[14]。

メイコンを離れることを望んだミルズとベリーは、1979年1月4日にジョージア大学へ入学し、アセンズへ移住した。ミルズは、かつてコープランドに売却していたベースアンプを買い戻して持参した。アセンズではベリーとともに地元の音楽関係者との交流を広げた[15]。

ビル・ベリー(ドラム)

ビル・ベリー

ビル・ベリー は1958年7月31日、ミネソタ州ダルースに生まれた。3歳のときに一家でジョージア州メイコンへ移住したが、当初は新居が完成していなかったため、家族は一時的に祖母の家で暮らした。兄や姉が購入した流行のレコードを聴いて育ち、11歳のころにはジェファーソン・エアプレインを好んでいた。学校の音楽適性検査で高い成績を収めたことから楽器を学ぶよう勧められ、ドラムを選んだ[11]。

高校時代、ベリーは放課後のサザン・ロックのセッションに参加し、そこで旧知のマイク・ミルズと偶然共演した。それまで2人の関係は良好ではなかったが、この共演をきっかけに親しくなった。以後、学校のマーチングバンド、ラウンジ・トリオ、複数のロック・バンドで共に演奏し、さまざまな音楽様式に対応できるリズム・セクションとして経験を積んだ[12]。

高校卒業後、ベリーはミルズと共同生活を送りながら、1976年秋にメイコンの芸能事務所パラゴンへ就職した。雑用係として働いていた1977年、同社を訪れた音楽エージェントのイアン・コープランドと知り合った。社内でコープランドのパンク・ロックへの関心を理解したのはベリーだけであり、ベリーはミルズを紹介して3人で交流するようになった。コープランドはベリーとミルズにイギリスやニューヨークのパンク・ロックを聴かせ、一時は3人でフラストレーションズというバンドも結成した[14]。

1979年1月4日、ベリーはミルズとともにジョージア大学へ入学し、アセンズへ移住した。パラゴンでの経験を生かして大学のコンサート委員会に加わり、将来は芸能関係の弁護士になることを考えていたが、ドラムセットも持参した。アセンズでは大学のラジオ局WUOGの関係者によるバンド、ウオッガーズなどで演奏した[15]。

1979年末、廃教会を改装した住居で暮らしていたキャスリーン・オブライエンは、スタイプとバックがリズム・セクションを探していることを知り、友人だったベリーに参加を持ちかけた。ベリーは長年の演奏仲間であるミルズを伴い、1980年初頭、4人は廃教会の居間で初めて練習した[16][17]。

来歴

デビュー前(1978年 - 1981年)

アセンズの音楽シーン

B-52's

1970年代後半、ジョージア州アセンズでは、ジョージア大学の芸術学部を中心とする学生文化と、パーティーを主な活動場所とした音楽シーンが形成されていた。1978年、地元の無名バンドだったB-52'sが自主制作シングル「ロック・ロブスター」で注目を集め、ワーナー・ブラザース・レコードとの契約を獲得したことは、アセンズの若者たちに大きな衝撃を与えた[注釈 1][19]。

パイロン

その影響を受け、1978年10月にはジョージア大学の美術学生たちによってパイロンが結成された[注釈 2]。ある程度演奏技術があったB-52'sと異なり、彼らはギターのチューニングもままならない素人集団だった。その後、パイロンはDBレコードからシングルをリリースしたが、ニューヨークへ行ったB-52'sとは異なり、アセンズに留まり続けた[19]。

他にも、トーン・トーンズ、メソッド・アクターズ(英語版)[注釈 3]、サイド・エフェクツなどのバンドがアセンズで活動していた[注釈 4]。しかし、アセンズには新しいバンドを継続的に受け入れる会場が少なく、既存のバーもパンクやニュー・ウェイヴに否定的だった。このため、学生や芸術家たちは空き家や商業施設を一時的な会場として利用し、自ら公演やパーティーを企画した。オコニー・ストリートにあったセント・メアリーズ教会跡地もその一つで、1979年からジョージア大学の学生たちが共同生活を送りながら、パーティーやバンドの練習に使用していた[24]。

R.E.M.結成

スタイプとバックは、スタイプの友人キャスリーン・オブライエンを介してベリーとミルズを紹介され、1980年初頭、オブライエンらが住んでいたセント・メアリーズ教会跡地で練習を開始した[注釈 5]。演奏経験の豊富なベリーとミルズに対し、バックは基本的なコードを弾ける程度で、スタイプにも本格的なバンド経験はなかったが、4人は最初の練習から強い相性を示した。ベリーとミルズによる安定したリズム・セクションと、技術より着想を重視するバックとスタイプの組み合わせが、初期の音楽性の基礎となった[25]。

1980年4月5日、4人はオブライエンの誕生日パーティーで初めて公演を行った。会場となった廃教会には約300人から500人が集まり、バンドは「ナレーター」「ベイビー・アイ」「ア・ディファレント・ガール」などの初期オリジナル曲に加え、モンキーズの「ステッピン・ストーン」やヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ゼア・シー・ゴーズ・アゲイン」などを演奏した。この時点では正式なバンド名がなく、「トゥイステッド・カイツ」などの候補が挙げられていたが、意味を限定しない名称を求めたメンバーは、辞書で見つけた「レム睡眠(Rapid Eye Movement)」の略称から「R.E.M.」を選んだ[25]。

初期の活動

ギャング・オブ・フォー

同年4月19日にはコーヒー・クラブでR.E.M.名義による公演を行い、5月にはアセンズのクラブ、タイローンズで演奏した。5月13日の単独公演には約350人が集まり、結成から約1か月半で地元有数の人気バンドとなった。6月にはアトランタへ進出し、7月にはギャング・オブ・フォーの前座を務め、続いてノースカロライナ州で初の州外公演を行った。この公演を企画したレコード店員ジェファーソン・ホルト(英語版)はバンドに強い関心を持ち、同年秋にアセンズへ移住したのち、ロード・マネージャーやブッキング担当を経て事実上のマネージャーとなった[26]。

初期のR.E.M.は1960年代のロック曲を多数カバーしていたため、オリジナル曲にこだわるアセンズの一部のミュージシャンからは、旧来的で商業的なバンドとして軽視されていた。また、他の地元バンドが芸術性を理解するニューヨークへの進出を志向する一方、R.E.M.は音楽的に保守的と見なされていた南部の地方都市でも積極的に演奏したことも、バンドを地元で浮いた存在にしていた。しかし、親しみやすいカバー曲の演奏によってR.E.M.は幅広い聴衆を獲得し、自分たちに興味のない人々の前で演奏を繰り返すことで、バンドは結束力を強め、演奏力を向上させていった。1980年末までにR.E.M.は、ジョージア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、テネシー州へ活動範囲を広げ、のちの成功を支える地域的な支持基盤を築いた[注釈 6][注釈 7][27]。

ちなみに初期のR.E.M.の楽曲は、恋愛や若者の不満を単純かつ直接的に歌ったものが多く、女性を突き放したり、暴力をほのめかしたりする歌詞は、のちに女性蔑視的との指摘がなされた。音楽面では、バックの限られた知識を反映して基本的なI–IV–Vのコード進行を中心としていたが、コードをかき鳴らすのではなく、バーズ風のアルペジオや初期のザ・フーを思わせるサスフォー・コードを多用した。そのギターを前面に出した演奏により、初期R.E.M.は1960年代のロックを思わせるサウンドを形成していた[28]。

作曲面で転機となったのは、1980年夏にスタイプが書いた「ガーデニング・アット・ナイト」と、同時期にミルズが書いた「ドント・ゴー・バック・トゥ・ロックヴィル」であった。その後「シッティング・スティル」「シェイキング・スルー」「プリティ・パースウェイジョン」など、のちにアルバムに収録される曲が作られた。特に1980年末に完成した「レディオ・フリー・ヨーロッパ」は、メンバーがそれまでで最も優れた楽曲と認識する作品となった[29]。

1980年12月6日、イアン・コープランドの仲介により、R.E.M.はアトランタのフォックス・シアターでポリスの前座を務め、約4,000人の観客の前で演奏した。バンドの初ライブからわずか8ヶ月後のことだった[30]。

「レディオ・フリー・ヨーロッパ」

ミッチ・イースター(左)

1981年4月、R.E.M.はノースカロライナ州ウィンストン・セーラムのドライブ・イン・スタジオで、プロデューサー兼エンジニアのミッチ・イースター(英語版)[注釈 8]と、「レディオ・フリー・ヨーロッパ」「シッティング・スティル」「ホワイト・トルネード」の3曲をレコーディングした。小さなガレージを改装したスタジオでは、メンバーとイースターが既成の録音方法にとらわれずに作業した。マイケル・スタイプはほかの人物から姿を見られないよう、部屋の隅で壁に向かって歌ったという[31]。

完成した3曲入りデモテープは、大学ラジオ局、音楽雑誌、クラブ関係者やレコード会社へ送られ好評を博し、『ヴィレッジ・ヴォイス』の評論家ロバート・クリストガウも評価した[32]。

同年7月、「レディオ・フリー・ヨーロッパ」をA面、「シッティング・スティル」をB面としたシングルがにハイ・トーン・レコードからリリースされた。初回プレスは1,000枚で、全国のクラブ経営者、興行主、大学ラジオ局や音楽雑誌へ無料配布され、ライブ活動を拡大するための宣伝手段として利用された[33]。

シングルは大学ラジオを中心に放送され、音楽雑誌から好意的な評価を受け、『ニューヨーク・タイムズ』のロバート・パーマーは同曲を1981年の年間ベスト・シングル10作の一つに選んだ。最終的な販売枚数は約7,000枚に達し、R.E.M.の名をアセンズとアメリカ南部以外へ広める最初の作品となった[34][35]。

一方、契約経験のなかったR.E.M.は、レコーディング費用の負担と引き換えに、「レディオ・フリー・ヨーロッパ」と「シッティング・スティル」の音楽出版権をハイ・トーン・レコートへ譲渡した。シングルの成功後、追加プレスの遅れや制作方針をめぐって両者の関係は悪化した。I.R.S.レコードとの契約に際して、バンドは出版権、原盤、アートワーク、再プレス権などを2,000ドルで買い戻し、この経験から、以後は自作曲の権利を他者へ譲渡しない方針を定めた[36][37]。

I.R.S.レコード時代(1982年 - 1988年)

I.R.S.レコードとの契約と『クロニック・タウン』(1982年)

当時、アメリカの大手レコード会社はイギリスのニュー・ウェイヴに関心を集中させており、ジョージア州出身のガレージ・バンドだったR.E.M.が契約を得ることは困難と考えられていた。バンドは大手各社へ広く売り込むことを望まず、バズコックス、クランプス、ゴーゴーズ、フレッシュトーンズ(英語版)などが所属し、A&Mレコードの流通網を利用でき、旧知の中であるイアン・コープランドの兄、マイルス・コープランド3世(英語版)が社長を務めるI.R.S.レコード(英語版)との契約を目標に定めた[注釈 9][39]。[40]。

I.R.S.が提示した契約では、まずI.R.S.が制作済みのEPをリリースし、その後、R.E.M.が同社のためにアルバム5枚を制作することになっていた。バンドが受け取る前払金は比較的少額に抑えられる一方、有利な印税率が設定された。R.E.M.は、多額の前払金を受け取ってレコード会社への債務を増やせば、それだけ会社による支配も強まると考え、この条件に同意した[41]。

活動を続けるうちに、僕たちは、始まりと終わりのある物語を歌う、単純な物語形式のバンドにはなりたくないと気づいた。喚起力のある言葉を使ったり、普通なら結びつかない言葉同士を組み合わせたり、反復を用いたり、音楽そのものやメロディーの力を利用したりすれば、意味を込めることができる。ある出来事について、それ自体には一度も直接触れずに曲を書くこともできる。その経験を明示しなくても、そこから生じる感覚を伝えられるんだ。
ピーター・バック, [42]

1982年5月31日、R.E.M.はI.R.S.レコードと正式に契約し、同年8月24日に5曲入りのデビューEP『クロニック・タウン』をリリースした。題名を直訳すると「慢性的な町」となるが、ベリーは「心の状態のなかにある都市」と説明している。さらに、「ウルヴズ、ロウアー(Wolves, Lower)」「1,000,000」「スタンブル(Stumble、「よろめく」の意)」など解釈の定まらない曲名、スタイプの不明瞭な歌唱、表ジャケットに描かれた陰鬱なガーゴイルなどによって、意図的に謎めいた作品として提示され、同時代のほかのバンドとは異なる独自のイメージを打ち出した[43]。

リリース後、R.E.M.はメリカ各地の小規模なクラブ、バー、大学のパーティーを巡る過酷なツアーを続けた(クロニック・タウン・ツアー)。宿泊費を節約するため車内や友人宅の床で眠り、観客が数人しかいない公演にも出演したが、その活動によって町ごとに支持者を増やし、ブラック・フラッグ、ミニットメン、リプレイスメンツ、ハスカー・ドゥなど、同様に主流の音楽産業の外側で活動していたバンドとも交流を深めた。I.R.S.も、こうした活動に合わせて、大学ラジオとライブ公演を中心に地域ごとに知名度を高める草の根的な宣伝方針を採った[44]。

こうした継続的なツアーに支えられ、『クロニック・タウン』は予想を上回る成功を収めた。大学ラジオのチャートでは3か月にわたって上位5位以内にとどまり、1982年末までに2万枚を売り上げた。同年10月には、バックの大学時代の知人アンディ・スレイターが執筆した、R.E.M.を取り上げる最初の記事が『ローリング・ストーン』誌に掲載された。翌1983年2月には、『ヴィレッジ・ヴォイス』紙の全米批評家投票「パズ&ジョップ」で、T・ボーン・バーネットに次ぐ1982年の年間EP第2位に選ばれた[45]。

バンドの運営方針

R.E.M.は結成当初から、音楽面だけでなく活動方針や経営上の判断にもメンバー自身が関与した。重要事項は4人の全員一致で決定し、各メンバーが事実上の拒否権を持った。特定のリーダーを置かず、作曲への貢献度にかかわらず楽曲の作者名を4人の連名とし、作曲印税を含む収益も均等に分配した。バックは、金銭と自尊心をめぐる対立がバンドを解散させると考え、この制度によってメンバー間の経済格差を防ごうとしたと説明している[46]。

またバンドは、楽曲の出版権を自ら保持し、レコーディング費用を抑え、予算の範囲内でツアーを行うことで、短期的な収入よりも長期的な利益と創作上の自由を優先した。さらに、派手なイメージ作り、アルバムに歌詞カードをつけること、テレビやミュージック・ビデオでの口パク、大物バンドの前座、著名なプロデューサーの起用、高額なミュージック・ビデオなど、音楽業界が一般的な成功への道として提示する方策にも、自分たちが必要と認めない限り従わなかった。バックは、自分たちの判断が誤っていた場合も、その結果を引き受ける代わりに「自分自身の間違いを犯したい」と述べている[47][48]。

マネージャーのジェファーソン・ホルトと法律顧問のバーティス・ダウンズは、契約交渉や財務・法務を担ったが、最終的な判断はバンドに委ねた。ダウンズは、R.E.M.は自らを管理し、活動上の決定を他人にほとんど委ねなかったため、自分たちはバンドの判断へ介入しないマネージャーだったと述べている[46]。

『マーマー』(1983年) - 謎めいた音像と全米デビュー

R.E.M. (1983年)

『クロニック・タウン』の成功を受け、I.R.S.レコードはR.E.M.にデビュー・アルバムの制作を求めた。当初、レーベル側は商業的な作品を期待し、ニュー・オーダーやペット・ショップ・ボーイズのプロデュースで後に知られるスティーヴン・ヘイグ(英語版)を起用した。しかし、ヘイグと試験的にレコーディングした「カタパルト」の出来にバンドとレーベルの双方が満足しなかったため、従来からレコーディングを担当していたミッチ・イースターとドン・ディクソン(英語版)が共同プロデューサーに起用された[49]。

レコーディングはノースカロライナ州シャーロット近郊のリフレクション・スタジオで行われた。イースターとディクソンは、メンバーの演奏上の制約もバンドの個性を形成する重要な要素と考え、そのサウンドを大きく作り変えずに補強する方針を採った[50]そして1983年4月12日にデビュー・アルバム『マーマー』がリリースされた。アルバム・タイトルは、「つぶやき」や「低いざわめき」を意味し、スタイプの不明瞭な歌唱や、暗示的で謎めいた作品の雰囲気を象徴していた。またバンドの説明によれば、「英語で最も発音しやすい7語の一つ」だった[51]。

アルバムは5月14日付の『ビルボード』誌のアルバム・チャートに190位で初登場し、同年8月には最高26位に達した。発売後数か月で約17万枚を売り上げ、バンドやレーベルの予想を上回る成功を収めた。成功の背景には、「レディオ・フリー・ヨーロッパ」と『クロニック・タウン』によって築かれていたカレッジ・ラジオでの支持、音楽評論家からの高い評価、各地のクラブを巡る継続的な公演活動があった[51]。また当時のアメリカでは、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンによってイギリスのニュー・ウェイヴやシンセポップがチャートを席巻する一方、音楽業界は国内の新しいバンドを求めていたという状況もあった。そのような状況下、R.E.M.の音楽は、アメリカのアンダーグラウンド・バンドのなかでは比較的親しみやすく、イギリスのポップ・バンドと並べて放送できるとともに、ラジオ局に先進的な印象を与える独自性も備えていた。こうした市場の変化も、『マーマー』がカレッジ・ラジオの支持層を越えて広まる要因となった[52]。

ポリス

アルバムリリース後もR.E.M.はツアー(マーマー・ツアー)を続け、1983年5月から7月にかけてクラブ規模の会場でヘッドライナーを務めた。同年8月には、所属レーベルや代理人を通じて関係の深かったポリスの東海岸公演で前座を務め、ニューヨークのシェイ・スタジアムやフィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムなどに出演した。メンバーは、自分たちを知らない大観衆の前で短時間演奏することに消極的で、のちにこのツアーを否定的に振り返っている。一方、代理人のイアン・コープランドらは、シェイ・スタジアムで「レディオ・フリー・ヨーロッパ」が観客から大きな反応を得たとして、この公演がバンドの知名度向上に貢献したと評価している[53]。

同年10月6日には、テレビ番組『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』に出演し、全米ネットのテレビ番組で初めて本格的な演奏を披露した。「レディオ・フリー・ヨーロッパ」に加え、当時まだ題名が決まっていなかった「サウス・セントラル・レイン」を演奏した[54]。

11月には初の本格的なヨーロッパ公演を行った。18日にイギリスのテレビ番組『ザ・チューブ』へ出演し、翌日にはロンドンのディングウォールズ、22日にはマーキー・クラブで公演を行い、その後フランスも訪れた。ロンドン公演はいずれも満員となり、『NME』はR.E.M.を「現在最も生命力に満ちたアメリカのグループ」と評した。これに対してバックは、R.E.M.はアメリカ各地で形成されつつある新しい音楽シーンの「氷山の一角」にすぎないと述べた[55]。

年末に発表された評論家投票でも、『マーマー』は高く評価された。『ローリング・ストーン』誌は、マイケル・ジャクソンの『スリラー』、ポリスの『シンクロニシティー』、U2の『WAR(闘)』を抑えて同作を1983年の年間最優秀アルバムに選び、R.E.M.を年間最優秀新人にも選出した。また、『ヴィレッジ・ヴォイス』紙の「パズ&ジョップ」では、『スリラー』に次ぐ年間アルバム第2位となり、『レコード』『トラウザー・プレス』『ロサンゼルス・タイムズ』などからも年間を代表する作品の一つに選ばれた。こうした評価によって、『マーマー』は商業的成功を上回る影響力を持つ作品と見なされ、R.E.M.はアメリカの新しいオルタナティヴ・ロックを代表するバンドとして注目されるようになった[56]。

『夢の肖像』(1984年) - カルト的人気の確立

『マーマー』が批評家から高い評価を受けたころ、R.E.M.はすでにセカンド・アルバムの制作に着手していた。バンドは、前作で示した曖昧でフォーク色の強い音像から離れ、ライブ演奏に近い、より力強く楽曲本位の作品を目指した。ツアーを通じて創作面でも勢いに乗っており、バックによれば、当時は1週間に2曲ほどの割合で良質な新曲を書き、使用しなかった曲も数百曲に及んだという。1983年11月には、ヨーロッパ公演を前に、ニール・ヤングのプロデューサーとして知られるエリオット・メイザー(英語版)とサンフランシスコで1日22曲をレコーディングした[57]。

メイザーをアルバムのプロデューサーに起用する案も検討されたが、最終的には『マーマー』を手がけたミッチ・イースターとドン・ディクソンが続投した。1983年末から1984年1月にかけて、クリスマスを挟む2回のセッションが行われ、アルバムは短期間でレコーディングされた[58]。豊富な楽曲から2枚組アルバムとする案もあったが、追加録音の多くが未完成だったため、最終的には通常の1枚組としてまとめられた[59]。

アルバム・タイトルの「夢の肖像(Reckoning)」には「清算」「審判」などの意味があり、セカンド・アルバムがバンドの将来を左右する重要な作品と見なされることを意識しつつ、そのような深刻さを皮肉るタイトルでもあった。また、背表紙には仮題「『水』の項目に分類する(File Under Water)」が記されており、容易に分類できないバンドであることを示す言葉遊びであるとともに、アルバムを通じて繰り返される水のイメージを示していた[60]。ジャケットには、スタイプの下絵をもとにハワード・フィンスター(英語版)が描いた双頭の蛇が使用された。意図的に傾けられた裏面の写真や手書き文字を含む装丁は、バンドがガレージ・バンドとしての粗削りな姿へ立ち戻ったことを示していた[61]。

『夢の肖像』は1984年4月にリリースされ、約1か月後には『ビルボード』誌のアルバム・チャートで30位以内に入り、最高27位を記録した。『ミュージシャン』『レコード』『ローリング・ストーン』『NME』などからも高い評価を受け、約1年間にわたって全米アルバム・チャートの上位200位以内にとどまった。またアルバム完成後も、R.E.M.は成功するにはニューヨークやロサンゼルスなどの音楽産業の中心地へ移る必要があるという通説に従わず、アセンズを生活と活動の拠点として維持した。マネージャーのジェファーソン・ホルトもアセンズのカレッジ・スクエアに事務所を開設し、バンドの運営組織を同地に置いた[注釈 10][63]。

R.E.M.は同年、北アメリカ、ヨーロッパ、アジアの3大陸で100回以上の公演を行った。春と秋にはイギリスを巡演し、秋のツアーではロンドンで約1500人を集め、音楽番組『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』にも出演した(リトル・アメリカ・ツアー)[64]。さらに同年11月には初来日し、東京都内の早稲田大学と青山学院大学で、爆風スランプと共演した。ファンキー末吉は当時のことを次のように回顧している[65][66][67]。

REMはその後アメリカでビッグネームとなるのだが、当時誰も注目してなかった彼らを学祭に呼んだ早稲田プロデュース研究会の方々の眼力はなかなかのものだと思う。

しかし前座に爆風スランプを使ったのは大きな誤算であった。当時のベーシストは身体は大きいが気は小さい現在のベーシストとは違い、それはそれは火の玉のような男だった。

ラウドネスもそうだったらしいが、オープニングアクトの機材はメインアクトの機材の前にセッティングする。オープニングアクトが終わったらその機材は全部ハケて、メインアクトがいつもやっているステージがそのまま残るというものだ。PAはもちろん時には照明もろくに当たらなかったりすると言う。

当時のベーシストはそれに腹を立ててステージで吠えた。「ここは日本じゃ!!ボケ!!!何でワシらが毛唐の前で演奏せなあかんねん!!毛唐はアメリカに帰れ!!」

いやーどういうわけだかこれで客席は湧いて、爆風スランプのステージは大盛り上がりで幕を閉じた。ワシが主催者やったらギャラ払わんな!!(笑)

しかしREMはそこでやっぱ実力があったんやな。日本ではまだまだ無名でヒット曲など1曲もないのに最後までステージをやってちゃんと客を盛り上げた。人間も非常にいい人達で、終演後に楽屋に挨拶に来てくれた時にはワシはどんな顔で会えばいいのか困ったのを覚えている。 — ファンキー末吉
ザ・スミス

ちなみにイギリスでは、R.E.M.は同時期に台頭したザ・スミスとしばしば比較された。両バンドは、商業的成功を収めながらアンダーグラウンドとしての立場を維持しようとし、リッケンバッカーによる響きの強いギターと、風変わりで内省的なボーカリストを組み合わせていた。とりわけ、ピーター・バックとジョニー・マーのギター・サウンド、芸術家気質のマイケル・スタイプと禁欲的なイメージを掲げたモリッシーの類似性が指摘された。しかしR.E.M.は、ザ・スミスより数年早くレコードを発表し、ライブ活動を行っていたため、同バンドから影響を受けたと見なされることに反発した。こうした事情から、本来は音楽的な盟友になり得た両バンドが交流することはなかった[68]。

こうして、大学ラジオでの支持、情熱的なライブ活動、イギリスのニュー・ウェイヴに代わる自国の音楽を求めるアメリカの聴衆を背景に、R.E.M.は新興のオルタナティヴ・ロックを代表する存在となった。アンダーグラウンドに属しながら比較的大衆に受け入れられやすい音楽性を備えていたことから、非主流の音楽シーンと音楽産業を結ぶ役割も果たし、1984年には全米規模のカルト的な人気を確立した[69]。

『玉手箱』(1985年)- ロンドンでの苦闘と南部への望郷

R.E.M. (1985年)

R.E.M.は『夢の肖像』の制作後、過去2作を手がけたミッチ・イースター、ドン・ディクソンとの共同作業を終え、フェアポート・コンヴェンション、リチャード・トンプソン、ニック・ドレイクなどを手がけたジョー・ボイド(英語版)を新たなプロデューサーに迎えた[70]。メンバーは長期間のツアーによってすでに疲弊していたが、収入を確保するにはツアーを続ける必要があり、そのためにアルバムの制作を急がなければならなかった[71]。

レコーディングはロンドンで行われたが、慣れない制作環境はバンドに悪影響を及ぼした。高温多湿のジョージア州から来たメンバーにとって、3月のロンドンは寒く湿っており、故郷から遠く離れた生活によってホームシックも深まった。さらに、短期間で書き上げた楽曲にはアレンジが十分に固まっておらず、テンポやキーをめぐってメンバー間の意見が対立した。疲労と方向性の喪失が重なり、一時は制作を中止してアセンズへ帰ることまで検討した[72]。

こうして完成した『玉手箱』について、スタイプは、ロンドンの環境を反映した「暗く、湿っぽく、偏執的なレコード」と表現した。バックも、R.E.M.が制作したなかで最も緊張感の強い作品であり、当時のバンドの状態を正確に示していると述べている[73]。また原題『Fables of the Reconstruction』は直訳すると「再建の寓話」となるが、装丁上は語順を入れ替えた『Reconstruction of the Fables(寓話の再構築)』とも読める循環的なタイトルになっている。「寓話」は、スタイプが南部で語り継がれてきた人物や物語をテーマとしたことを示し、「再建」は、バンドを取り巻く神話の再構築に加え、南北戦争後に北部主導で南部社会が再編されたレコンストラクションを連想させる[74]。

1985年6月10日にリリースされた『玉手箱』に対するアメリカの音楽メディアの評価は、過去2作ほど好意的ではなかったが、アルバム収録曲の「遠くにありて」はアメリカのロック系ラジオ局で広く放送され、同曲のミュージック・ビデオも過去の作品よりMTVで多く放送された。シングル自体は大きなヒットにならなかったものの、アルバムは『ビルボード』誌のアルバム・チャートで30位以内に入り、売り上げは前作『夢の肖像』の約25万枚を早期に上回った[75]。

細い三つ編みをいくつもした奇妙な格好のボヘミアンが紙に何かを書いているのを見かけた。印象的な悲喜劇な顔つきの彼は『ゴドーを待ちながら』のラッキーのように見えた。彼は南部の美しく甘い鼻声の持ち主で、その物腰は非の打ち所がなかった。それがマイケル・スタイプだった。お互いに読んでいるものを張り合う瞬間や、お互いに避けようとする瞬間もあった。それが僕の人生で最も重要な人間関係の一つの始まりだった。マイケル・スタイプとの友情が僕にとってどれほど意味があるかは、とてもではないが言葉では言い表せないよ。
ボノ, [76]

同年6月には、R.E.M.はU2から直接招かれ、ヨーロッパの大規模な野外公演で前座を務めた。6月22日のイギリス、ミルトン・キーンズ・ボウル公演では、激しい雨のなか、U2の直前に約5万人の観客を前に演奏した。しかし、沈鬱な「フィーリング・グラヴィティーズ・プル」で始まるステージは観客に受け入れられず、尿を入れたプラスチック製ボトルなどを投げつけられた[77]。

イギリスでは熱心な支持層を獲得し、同年のツアーを収容人数約3500人のハマースミス・パレイでの2夜公演によって締めくくった(リコンストラクション・ツアー)。しかし、ラジオでの放送やアルバムの売り上げは伸びず、人気は中核的な支持層の外へ広がらなかった。ヨーロッパでの販売を担当したCBSインターナショナルの支援にも不満を抱いたR.E.M.は、その後2年間、ヨーロッパでのツアーを行わなかった[78]。

『ライフズ・リッチ・ページェント』 (1986年) - 政治的覚醒と音楽的飛躍

『玉手箱』の制作で疲労と方向性の喪失を経験したR.E.M.は、次作ではプロデューサーを慎重に選び、より直接的で力強いロック・アルバムを制作する方針を立てた。候補として浮上したのが、ジョン・メレンキャンプの作品を手掛けたことで知られるドン・ゲーマン(英語版)であった。ゲーマンは、楽器とスタイプの歌声を明瞭に録音し、商業的にも通用する作品を作る意向を示した。I.R.S.も、従来より主流市場に近い作品を期待して制作費の増額を認めた[79]。

レコーディングはインディアナ州ブルーミントンのベルモント・モール・スタジオで行われた。ロンドンとは対照的に落ち着いた環境で制作は順調に進んだ。ベリーのドラムには従来より大きく自然な音が与えられ、ほぼ全曲で足踏みオルガンが使用されるなど、R.E.M.のサウンドは大幅に拡張された。[80]

アルバム・タイトルの『ライフズ・リッチ・ページェント』(Lifes Rich Pageant、「人生の豊かな絵巻」の意)は、ピーター・セラーズ主演の映画『暗闇でドッキリ』で、災難を「人生の豊かな絵巻の一部」と受け流す台詞に由来する。R.E.M.は「Feeling Gravitys Pull」と同様に、題名から意図的にアポストロフィーを省いた[注釈 11]。新曲が不足していたため、初期の「ジャスト・ア・タッチ」や旧作を改作した「ホワット・イフ・ウィ・ギヴ・イット・アウェイ」、前作から持ち越された「ハイエナ」も収録された。また、テキサス州のバンド、クリークの楽曲をカバーした「スーパーマン」では、ミルズがR.E.M.の作品で初めてリード・ボーカルを担当した[81]。

本作ではスタイプの歌声が従来より前面に出され、歌詞も明瞭で自己主張の強いものとなった。また歌詞には政治的・環境的な主題が増え、「フォール・オン・ミー」は酸性雨や企業による環境破壊、「ザ・フラワーズ・オブ・グアテマラ」はアメリカ合衆国による中央アメリカへの介入、「ハイエナ」は核戦争の脅威を扱った。「カヤホガ」では、先住民虐殺の歴史と河川汚染を重ね合わせてアメリカ社会を批判した[注釈 12]。さらに、スタイプはバンドのビジュアル表現にもいっそう深く関与し、「フォール・オン・ミー」で初めてミュージック・ビデオを単独監督した[83]。

1986年にリリースされた『ライフズ・リッチ・ページェント』は批評はおおむね好意的で、とりわけイギリスで高く評価され、『ヴィレッジ・ヴォイス』紙の全米批評家投票でも年間トップ10に入った。『ローリング・ストーン』誌のアンソニー・デカーティスは4つ星を与え、さらに強力な2曲があれば1980年代を代表する傑作になり得たと評した[84]。

シングル「フォール・オン・ミー」はAOR局の放送リストで上位5位に入ったものの、Billboard Hot 100では94位にとどまった。一方、アルバムはBillboard 200で最高21位を記録し、1987年1月には米国で50万枚を売り上げ、R.E.M.にとって初のゴールド・アルバムとなった。1986年9月から11月には北米ツアーを行った。公演は従来のフォークロック的な印象を覆す力強い内容で、R.E.M.が大規模会場へ進出できる段階に達したことを示した(ページェントリー・ツアー)。ツアーでは翌年のヒット曲となる「ザ・ワン・アイ・ラヴ」も披露され始めた[84]。

『ドキュメント』(1987年)- オルタナティヴからメインストリームへ

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スコット・リット

『ライフズ・リッチ・ページェント』を手掛けたドン・ゲーマンは、ほかの仕事のため制作日程を確保できず、後任として同じマネジメントに所属していたスコット・リット(英語版)を推薦した。ゲーマンは後年、R.E.M.との仕事を継続できなかったことを「人生最大の過ち」と振り返っている[85]。

レコーディングは1987年3月末からナッシュビルで開始された[86]。「僕は大きな音が好きだ。大胆なサウンドが好きだし、聴き手を一瞬で引きつける歌手が好きだ。それ以下のものを受け入れるつもりはなかった」というリットは明瞭で力強く、ラジオ放送にも適したサウンドを目指した。メンバーも自分たちの曲をラジオで聴きたいと考えていたが、スタイプのボーカルを前面に出すことについて明確な方針が決められたわけではなく、レコーディングを進めるなかで自然に歌声が明瞭になったという[87]。

スタイプはアルバム全体の主題を「混沌」と説明し、そのなかに秩序が存在するという考えを制作に反映させた。前作に続いて政治的な歌詞が増え、「ウェルカム・トゥ・ジ・オキュペーション」ではアメリカ合衆国による中米への介入、「エクシューミング・マッカーシー」ではロナルド・レーガン政権下の右傾化、国家主義、拝金主義を批判した。一方、「世界の終る日」では、無関係に見える人物名や言葉を高速で並べ、混沌とした社会と終末の光景をユーモラスに描いた。メンバーは1936年のベルリンオリンピックやマッカーシー公聴会などの歴史映像を見ながらミックス作業を行い、スタイプの提案によりアルバムを『ドキュメント』(Document)と命名した。題名には、R.E.M.の直近1年間を記録した「文書」であると同時に、バンドを取り巻く社会を映し出す「ドキュメンタリー」という意味が込められた[88]。

1987年8月31日に発売された『ドキュメント』は、批評家とファンからほぼ一致して高い評価を受け、アルバムは発売から3週間でR.E.M.初の全米トップ20入りを果たし、最終的に『Billboard 200』で最高10位に達した[89]。アルバム・チャートのトップ40には5か月間とどまり、最終的に1988年1月までに売上100万枚へ達し、R.E.M.にとって初のミリオンセラー・アルバムとなった[90]。

「ザ・ワン・アイ・ラヴ」はロック・ラジオで支持されたのち、従来R.E.M.の楽曲をほとんど放送してこなかったトップ40局にも広がり、同年12月にBillboard Hot 100で最高9位を記録した。これはバンド初の全米トップ10シングルとなった。同じ時期、『ローリング・ストーン』誌はR.E.M.を「アメリカ最高のロックンロール・バンド」と題して表紙に起用した[91]。

発売に合わせて、R.E.M.は2年ぶりにヨーロッパへ渡り、1987年9月にロンドン、ユトレヒト、パリ、デュッセルドルフで公演した。全4公演のチケットは完売した。その後、バンドは8週間にわたる北米の「ワーク・ツアー」を行い、約25万人を動員した[92]。

ワーナー・ブラザース時代前期――世界的成功への飛躍(1988年–1996年)

ワーナー・ブラザースとの契約

ワーナー・ブラザーズ・レコード

『ドキュメント』は、R.E.M.がI.R.S.レコードと結んだ5作品契約の最終作だった。同作の成功によってバンドは契約先と条件を自由に選べる立場となった。I.R.S.は以前から、印税率と前払金を引き上げる代わりに契約作品数を追加する再交渉を持ちかけていたが、R.E.M.はこれに応じず、当初の契約が満了するまで待った[93]。

バンドが移籍を検討した主な理由は、I.R.S.の規模と海外での販売力にあった。R.E.M.は、同社が新人バンドの育成には優れていたものの、アルバム売上を100万枚からさらに拡大する段階では、大手レコード会社の方が有利だと判断した。また、I.R.S.作品の海外販売を担当したCBSインターナショナルがバンドを十分に宣伝せず、ヨーロッパでの成功が伸び悩んでいることにも不満を抱いていた。バンドは、移籍先の候補をコロムビア・レコード、アリスタ・レコード、A&Mレコード、ワーナー・ブラザース・レコードの4社に絞った[94]。

バンドがワーナー・ブラザースを選んだ理由は、金銭だけではなかった。同社は強力な国際流通網を持ち、ランディ・ニューマン、ヴァン・ダイク・パークス、ニール・ヤングのほか、The B-52's、リプレイスメンツ、ハスカー・ドゥなど、R.E.M.が評価する音楽家を多数擁していた。社長のレニー・ワロンカーも、バンドの美的・創作的な方針を理解し、それを損なわずに市場を拡大することを約束した。R.E.M.側は契約条件を競わせることを避け、会社の性格と将来築ける関係を基準にワーナーを選んだ後、具体的な交渉を開始した[95]。

契約は5作品を対象とし、前払金の総額は1,000万ドルを超え、1作品あたり200万から300万ドル、印税率は20パーセント以上だったとされる。さらにR.E.M.は録音原盤の所有権を保持し、一定期間のみレコード会社へ貸与する権利と、CDについて減額されない印税を獲得した。当時は、制作費を負担したレコード会社が原盤を恒久的に所有するのが一般的であり、バンド側が原盤を保有する条件は異例だった[96]。

I.R.S.も前払金と印税率では対抗し、旧譜に対する印税の引き上げを提示した。しかし、MCAとの製造・流通契約に制約されていたため、原盤の返還やCDへの完全な印税を認めることができなかった。R.E.M.側も、同規模の契約はI.R.S.の経営やその後の宣伝費を圧迫しかねないと考えた。バンドは1988年にワーナー・ブラザースと契約したが、I.R.S.へ移籍を伝えることは、メンバーにとって「最もつらい決断」だったという。バックは、創作上の自由を与えながらバンドを育てたI.R.S.への感謝を表明しつつ、「先へ進む時が来た」と説明した[97]。

『グリーン』(1988年)- メジャー移籍と世界進出

ワーナー・ブラザースとの契約によって経済的な余裕を得たR.E.M.は、1988年2月、アセンズのジョン・キーンのスタジオで新作のデモ制作を開始した。バンドは、『ライフズ・リッチ・ページェント』と『ドキュメント』で確立したアリーナ・ロック的な様式が定型化することを懸念し、新しいサウンドを目指した。バック、ミルズ、ベリーは互いの楽器を交換し、担当が変わってもR.E.M.らしい音楽が成立するかを試みた。また、それまで器楽部分の完成後に歌詞を書いていたスタイプも、作曲の初期段階から参加するようになった。同年5月からメンフィスのアーデント・スタジオで本格的なレコーディングを開始し、共同プロデューサーには引き続きスコット・リットを起用した。十分な予算と制作期間を与えられたバンドは、レコーディングだけで約3か月を費やし、時間を気にせず新しい楽器編成や作曲方法を試みた[98]。

題名の『グリーン』(Green)は、環境保護を重視するバンドの政治姿勢のほか、若さ、未熟さ、熱意などの肯定的な意味から選ばれた。スタイプは、当時広がっていた「出来合いのシニシズム」に対する反論と説明している。歌詞では、前2作の政治的な怒りを楽観主義へ転換し、直接的な政治曲は、ベトナム戦争と枯葉剤を題材とした「オレンジ・クラッシュ」に限られた[99]。

『グリーン』は、1988年アメリカ合衆国大統領選挙の投票日である1988年11月8日に世界同時発売された。この日程は意図的なもので、スタイプとバックは民主党候補マイケル・デュカキスの選挙運動に献金し、スタイプは地元紙にも支持広告を掲載した。また、R.E.M./Athens Ltd.は、アセンズの歴史的建造物を保存するための調査費を寄付するなど、地域の政治活動にも関与していた[100]。

音楽業界では、R.E.M.が大手レーベルから発表する最初の作品として、U2の『ヨシュア・トゥリー』に匹敵する大ヒットが期待されていた。しかしリットは、制作中から『グリーン』が500万枚規模の作品にはならないとワーナーへ伝えていた。アルバムは全米トップ20へ入ったものの、当初はトップ10入りを逃し、批評家からは作品後半の統一感を欠くとの指摘も受けた。バンドとワーナーは、発売直後にシングルを集中して投入せず、作品を長期的に浸透させる方針を取った[101]。

1989年1月に発売された「スタンド」は、ラジオとMTVで広く放送され、全米シングル・チャートで最高6位を記録した。『グリーン』も再び売上を伸ばし、全米トップ20に5か月間とどまって『ドキュメント』の100万枚を超える売上を上回った。同年のツアーでは、アトランタの2公演で計2万7,000人を集め、マディソン・スクエア・ガーデンの1万6,500枚のチケットを1時間で完売した[102]。

ワーナーの国際的な流通・宣伝力によって、R.E.M.は北米以外でも大きく支持を広げた。オーストラリアでは『グリーン』がゴールド認定され、イギリスでは「オレンジ・クラッシュ」がバンド初の全英トップ30シングルとなった。アルバムも全英チャートへ再登場し、R.E.M.にとってイギリス初のゴールド・アルバムとなった。需要の増加を受けてウェンブリー・アリーナ公演が追加され、バンドは同国でもアリーナ級の人気を獲得した[103]。

一方、1989年秋の北米ツアーでは、アルバムがチャートから下降し、「ゲット・アップ」もチャート入りを逃したため、一部のアリーナで空席が目立った。長期間に及ぶ公演によってメンバーも疲弊し、ベリーはツアー後半について、演奏を機械的にこなすだけとなり、観客に十分なものを提供できていないと感じたと回想している(グリーン・ワールド・ツアー)。バンドは同年11月の最後の5公演を撮影し、その映像をスタイプとジム・マッケイらが編集した。85分の映像作品『グリーン・ワールド・ツアー(Tourfilm)』は1990年に発売され、1980年代を通じたR.E.M.の継続的なツアー活動を締めくくる作品となった[104]。

『アウト・オブ・タイム』(1991年)- ツアーなき世界的成功

1989年の「グリーン・ワールド・ツアー」を終えたR.E.M.は、翌1990年春からアセンズのリハーサル・スタジオで新作の制作を開始した。長期ツアーで従来の楽器編成に飽きを感じていたメンバーは、『グリーン』収録の「ユー・アー・ジ・エヴリシング」を新作の方向性とし、バックはマンドリン、ベリーはベース、ミルズはキーボードを中心に作曲を進めた。バックは弦楽器をレコーディングの最終段階で付け加えるのではなく、楽曲を構成する主要な要素として取り入れることを提案した[105]。

レコーディングは引き続きスコット・リットを共同プロデューサーに迎え、1990年9月にニューヨーク州ウッドストックのベアズヴィル・スタジオで開始された。その後、アセンズのジョン・キーンのスタジオでオーバーダビングを行い、同年12月にミネアポリスのペイズリー・パーク・スタジオでミックスを完成させた。レコーディングに先立ち、R.E.M.は長期化していた「制作・ツアー・休養」という活動周期から離れるため、本作の発売に伴うツアーを行わないことを決めていた。そのため、ステージでの再現を考慮する必要がなく、自由な楽器編成を採用することができた。アトランタ交響楽団の奏者が全11曲中8曲に参加したほか、ジャズ奏者のキッド・ジョーダン、B-52'sのケイト・ピアソン、ラッパーのKRS・ワンらがゲストとして参加した。また、元dB'sのピーター・ホルサップルが複数の楽器を担当し、ライブ演奏を中心としたレコーディングを支えた[106]。

スタイプは自身への課題として「ラブソングのアルバム」を作ることを掲げ、愛、記憶、時間を中心的な主題とした。制作終了直前まで題名が決まらず、レコード会社から回答を求められた際にミルズが発した「時間切れだ(We're out of time)」という言葉から、アルバム名が『アウト・オブ・タイム』に決定した[107]。アルバム発売後も本格的なツアーは行わず、その代わりに少数のアコースティック公演や『サタデー・ナイト・ライブ』や『MTVアンプラグド』などのテレビ出演によって宣伝を行ったこうした出演は数が限られていたため、それぞれが大きな注目を集め、本格的なツアーを行わずにアルバムを宣伝する役割を果たした[108]。

1991年3月に発売された本作は、批評家から高い評価を受けた。とりわけ、ターセム・シンが監督した「ルージング・マイ・レリジョン」のミュージック・ビデオは、宗教画、イカロス神話、インド映画などを想起させる映像によって注目を集め、MTVで大量に放送された。同曲はBillboard Hot 100で4位を記録し、アルバムも全米1位を獲得した。イギリスでもアルバムが1位、「ルージング・マイ・レリジョン」が19位、「シャイニー・ハッピー・ピープル」が6位に達した。ツアーを行わなかったにもかかわらず、翌1992年初頭までに世界売上は約1000万枚に達した[注釈 13][110][111]。

「ルージング・マイ・レリジョン」は1991年のMTV Video Music Awardsで最優秀ビデオ賞を含む6部門を受賞した。翌年のグラミー賞では、本作が最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム、「ルージング・マイ・レリジョン」が最優秀短編ミュージック・ビデオおよび最優秀ポップ・パフォーマンス(デュオまたはグループ)を受賞した[112][113]。

ニルヴァーナ

しかし、本作の成功によってR.E.M.がオルタナティヴ・ロックの枠を越えたのと同じ1991年、ニルヴァーナが「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」とアルバム『ネヴァーマインド』で急速に台頭した。その成功に続いて、サウンドガーデン、パール・ジャム、アリス・イン・チェインズなどのシアトル出身バンドが広く支持され、オルタナティヴ・ロックの中心はグランジへと移った。R.E.M.はこの変化を歓迎し、自分たちより約10歳若い世代へアンダーグラウンドの代表という立場を譲ることで、特定の音楽運動に縛られず活動できるようになったと受け止めた[113]。

『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』(1992年) - 静かな内省が生んださらなる世界的成功

『アウト・オブ・タイム』の成功後も本格的なツアーを行わなかったR.E.M.は、1991年を通じてアセンズで新曲の制作を進めた。演奏を担当する3人は、ドラムを使わず、ベリーがベース、ミルズがオルガンやピアノ、バックがマンドリンを担当して曲を書き、デモ制作の段階で通常の編成に戻した。約30曲のインストゥルメンタルが作られたが、バンドは明るく軽快な曲を退け、不協和音を用いた陰鬱な楽曲を中心に選んだ[114]。

ジョン・ポール・ジョーンズ

共同プロデューサーには引き続きスコット・リットを起用した。バンドは1992年2月にアセンズでデモを制作した後、ニューオーリンズ[注釈 14]、ニューヨーク州ウッドストック、マイアミ、アトランタ、シアトルとアメリカ各地のスタジオを巡りながら録音とミックスを行った[115]。マイアミでは、R.E.M.は宣伝写真の撮影をアントン・コービンに依頼した。コービンはU2やデペッシュ・モードなどの写真やミュージック・ビデオで知られ、落ち着きと自信を感じさせる芸術的なバンド写真を撮影した。また、アトランタで行われた4曲のストリングス録音には、レッド・ツェッペリンのベーシスト兼キーボード奏者であったジョン・ポール・ジョーンズを編曲者として起用した。これら4曲はいずれも後にシングルとして発売された[116]。

アルバムのミックスを行ったシアトルでは、ニルヴァーナをはじめとするグランジが隆盛を迎えていた。バックは、ニルヴァーナに対抗して大音量のギター・アルバムを作る意味はないと考え、同時代の潮流とは対照的な抑制された作品を目指した。アルバム・タイトルの『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』は、アセンズのソウルフード店「ウィーヴァーD's」で、注文を受けた店主が「すぐに用意する」「お任せください」という意味で使っていた決まり文句「オートマチック」に由来する。ミルズは、店が客に料理を提供するように、R.E.M.も聴き手に楽曲を差し出すという意味が込められていると説明した[117]。

歌詞では死、老い、喪失、記憶などが主要な題材となった。「トライ・ノット・トゥ・ブリーズ」は死を目前にした高齢者、「スウィートネス・フォローズ」は両親の死を描き、「エヴリバディ・ハーツ」は人生に疲れた者に踏みとどまるよう呼びかけた[118]。 一方、「マン・オン・ザ・ムーン」はコメディアンのアンディ・カウフマンを通して現実と虚構の境界を描き、「イグノアランド」はロナルド・レーガンとジョージ・H・W・ブッシュの政権を批判した。「ナイトスイミング」と「ファインド・ザ・リヴァー」では青春の記憶や人生への不安を扱った。全体として暗い題材を取り上げながらも、生き続けることへの肯定的な姿勢が保たれている[119]。

R.E.M.は本作でもツアーを行わず、スタイプとベリーは宣伝のための取材にもほとんど応じなかった。メンバーは前作を下回る売上を予想していたが、1992年10月の発売後、全米最高2位を記録し、2か月以内にダブル・プラチナに認定された。ピーター・ケアが監督した「マン・オン・ザ・ムーン」と、ジェイク・スコットが交通渋滞を舞台に撮影した「エヴリバディ・ハーツ」のミュージック・ビデオも注目を集めた。後者は1993年に全英トップ10入りし、その成功によってアルバムも全英1位へ3度返り咲いた[120][121]。

イギリスでは初登場1位となり、6曲がシングルとして発売され、そのうち4曲がトップ20入りした。同国でのアルバム売上は200万枚に達し、『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』によってR.E.M.の最大市場はアメリカからイギリスへと移った[122]。しかし、スタイプが痩身であったこと、アルバムに死を扱う曲が多かったこと、ツアーや取材を行わなかったことなどから、イギリスの一部メディアでは、スタイプがエイズまたは癌を患っているとの事実無根の噂が広がり、噂はタブロイド紙にまで拡散した[注釈 15][124]。

スタイプは1992年のアメリカ大統領選挙でも民主党を支持し、同年10月、アセンズで副大統領候補アル・ゴアを紹介した。ゴアは集会で、R.E.M.のアルバム名にかけて「ジョージ・ブッシュは『アウト・オブ・タイム』であり、ビル・クリントンとアル・ゴアこそが『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』になる」と発言した[125]。

クリントンの大統領就任に伴い、1993年1月20日に開かれたMTVの就任祝賀行事では、スタイプとミルズがU2のアダム・クレイトン、ラリー・マレン・ジュニアと共演した。4人は、R.E.M.の『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』とU2の『アクトン・ベイビー』を組み合わせて「オートマチック・ベイビー」と名乗り、U2の「ワン」を演奏した。これは、当時世界で最も成功し、高い評価を得ていた二つのロック・バンドによる最初の公の共演となった[126]。

『モンスター』(1994年)- ロックへの回帰と巨大ツアー

リヴァー・フェニックス
カート・コバーン

『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』の成功後、R.E.M.は次作に伴うツアーを再開する方針を固め、大規模な会場で演奏できるロック・アルバムの制作を目指した。音楽的には、同時期に『アクトン・ベイビー』で自己刷新を果たしたU2からも間接的な影響を受け、グラムロック、パンク、グランジを融合した人工的で皮肉なサウンドを志向した。題名の『モンスター』には、ロック界の巨大な存在となった自分たちと、翌年に予定された大規模ツアーを戯画化する意味が込められた[127]。

1993年夏、メンバーは本来の担当楽器に戻ってアセンズで制作を始め、10月には共同プロデューサーのスコット・リットとニューオーリンズでデモを録音した。しかし同月、スタイプの親友だった俳優リヴァー・フェニックスが薬物の過剰摂取により死亡し、スタイプは歌詞を書くことも歌うこともできなくなった。制作は約4か月間中断され、完成したアルバムは「リヴァーに」捧げられた[注釈 16]。その際、店内ではデップ、バットホール・サーファーズのギビー・ヘインズ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらによるバンド「P」が、歌詞にスタイプとフェニックスが登場する「Michael Stipe」を演奏していたとされる[129]。

スタイプとフェニックスの親交は当時広く知られていなかったが、ともに菜食主義者で、動物保護団体を支援するアルバム『テイム・ユアセルフ』にも参加していた。スタイプはフェニックスを「僕の兄弟」と呼び、その死を「人生で最も打ちのめされた出来事」と述べた。スタイプは死の詳しい事情について、「あまりにもひどい、悲惨な間違いだった」とのみ語っている[130]。

制作再開後、バンドはアトランタのサウンドステージで一斉演奏による録音を行った。バックは従来のアルペジオやマンドリンから離れ、大音量のコード、トレモロ、フィードバックを多用した。複数のアンプとマイクを組み合わせて残響の深い巨大なギター音を作り、オーバーダビングを抑えた荒々しいサウンドを形成した。録音にはリットに加えてエンジニアのパット・マッカーシー(英語版)が参加した[注釈 17][130]。

歌詞では、死や喪失を扱った前作から意識的に離れ、性的執着、ジェンダー、名声、消費文化などが題材となった。スタイプはデヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、ルー・リード、ニューヨーク・ドールズなど1970年代のグラムロックから影響を受け、さまざまな人物を演じるように露骨で挑発的な歌詞を書いた。「クラッシュ・ウィズ・アイライナー」や「キング・オブ・コメディ」は自己演出とアイデンティティーを扱い、「タング」「スター69」「バン・アンド・ブレイム」などには性や執着、つきまといのイメージが用いられた[132]。

しかし制作を再開して間もない1994年4月、今度は親交を深めていたカート・コバーンが自殺し、スタイプは再び大きな衝撃を受けた。コバーンの薬物依存と自殺願望を心配していたR.E.M.は、彼をシアトルの環境から一時的に離して自殺を思いとどまらせようと、アトランタ行きの航空券を送っていたが、使用されることはなかった[注釈 18][135]。スタイプは、苦しみを他人に打ち明けられなかったコバーンへの思いを「レット・ミー・イン」に託し、バックは厚いギターの残響と、オルガン、タンバリンによる簡素な伴奏を加えた[134]。

制作はメンバーの病気や家庭上の事情によってたびたび中断された。ミルズは虫垂炎で手術を受け、ベリーはインフルエンザ、スタイプは歯の膿瘍を患った。さらに多数の未完成曲から収録曲を選ぶ作業も難航し、メンバーが互いに口をきけなくなるほど関係が悪化した。話し合いを経て全員が同じ日程で制作に集中し、1994年7月にアルバムを完成させた[136]。

1994年9月、先行シングル「ホワッツ・ザ・フリークエンシー、ケネス?」に続いてアルバムが発売された。アメリカでは初週に34万4,000枚を売り上げ、米英を含む各国のチャートで1位を記録した。R.E.M.がアメリカとイギリスで同時にアルバム首位を獲得したのは初めてだった。一方、批評家の評価は前2作ほど高くなく、スタイプの歌声を覆う過剰なギター音や、作為的なロック・サウンドが批判された。1995年2月にはアメリカでトリプル・プラチナに認定されたが、後続シングルの成績は伸び悩み、アルバムは前作ほど長期間チャートに残らなかった[137][138]。

1995年1月、R.E.M.は約5年ぶりの本格的な世界ツアーを開始した(モンスター・ツアー)。しかし3月1日のスイス・ローザンヌ公演中、ベリーが脳動脈瘤の破裂によって倒れ、緊急手術を受けた。ヨーロッパの残り32公演とアメリカの8公演が中止されたが、ベリーの希望により5月からツアーを再開した。その後もミルズが虫垂切除手術後の腸癒着、スタイプが横隔膜ヘルニアで手術を受け、公演の中止が相次いだ[139][140]。

再開後のツアーでは、サウンドチェックを新曲制作の場として利用し、「デパーチャー」「アンダートウ」「ザ・ウェイクアップ・ボム」「ビンキー・ザ・ドアマット」などを発表した。イギリスとアイルランドではスタジアム公演を行い、ブラー、オアシス、クランベリーズらが前座を務めた。最終公演は同年11月にアトランタのオムニで行われ、その映像はライブ・ビデオ『ロードムービー』として発表された。バックは後に、同規模の巨大ツアーを行うのはこれが最後になると考えていたと述べている[141]。

『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』(1996年)- ツアーから生まれた冒険

あれはR.E.M.のようなバンドが作るべきアルバムだった、と思える点で意義があると思っているんだ。僕らはわずか4~5年という期間で2500~3000万枚近いセールスをあげた(実際には3000万枚以上)。そんな僕らが、ああいうアルバムを作るのは決して楽なことではなかったし、安全策ではなかった。それでも、ほとんど誰もやったことがないようなことをやろうと決めて取りかかったんだ。チャレンジだったけど、僕らの立場でやるべきチャレンジだったと思う。
ピーター・バック, [142]

R.E.M.は『モンスター』ツアーを行いながら、サウンドチェックを作曲と録音の場として利用し、100時間を超える録音が残された。ツアー終了後、バンドはアセンズのジョン・キーンのスタジオを経て、1996年3月から4月にかけてシアトルでオーバーダビングとミックスを行った。共同プロデューサーは引き続きスコット・リットが務めた[143]。

「ディパーチャー」「アンダートウ」「ウェイク・アップ・ボム」「ビンキー・ザ・ドアマット」などには、各地の公演やサウンドチェックで録音した演奏が使用された。一方、「ニュー・テスト・レパー」や「エレクトロライト」などは、ツアー後にシアトルで制作された[144]。「Eボウ・ザ・レター」では、ピーター・バックがE-Bowを使用し、パティ・スミスをゲスト・ボーカルに迎えた。バンドはライブ録音とスタジオ録音を融合した同曲を先行シングルに選んだ[145]。

全14曲、約65分に及ぶ本作は、R.E.M.にとって当時最長のアルバムとなった。アルバム・タイトルは、ステレオ録音の普及期に用いられた「ハイ・ファイ」を冠するレコードへの冗談めいた言及である。公演、サウンドチェック、楽屋、スタジオという異なる環境の録音を混在させながら、スタイプはライブ録音とスタジオ録音の区別がつかない作品に仕上げたことを評価した。バックも、メンバーの重病や公演中止に見舞われながら約25曲を制作・録音したことに誇りを示した[146]。

『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』は1996年9月に発売され、イギリス、ドイツ、オランダ、オーストラリア、カナダなど約15か国で1位を記録した。イギリスでは初週に10万枚以上を売り上げて初登場1位となり、アメリカでは初週約22万7000枚を売り上げて最高2位を記録した。批評家からは、前作の意図的なグランジ風の音作りから離れ、R.E.M.本来の即興性と多様性を取り戻した作品として高く評価された[147]。

一方、先行シングル「Eボウ・ザ・レター」は全英4位を記録したものの短期間で順位を落とし、全米では49位にとどまった。続く「ビタースウィート・ミー」と「エレクトロライト」も大きなヒットにはならなかった。当時の音楽市場では、イギリスでブリットポップとスパイス・ガールズ、アメリカではヒップホップや新世代のロックが台頭しており、R.E.M.は次第に旧世代のバンドとみなされるようになっていた[148]。

アルバムは最終的に世界で約500万枚を売り上げたが、『モンスター』まで続いた大規模な商業的成功には及ばなかった。活動を支えてきた聴衆の高齢化、前作に対する失望、強力なヒット・シングルの不在に加え、1991年以来続いていた頻繁な作品発表と報道による飽和感も売上低下の一因となった。バンドは当初から一般層の離脱を予想しており、作品への評価を変えることはなかった。発売から2年後、スタイプは本作について「これまでで最も完璧に近いレコード」であり、「ロック・バンドが一緒にライブ演奏している作品」だったと述べている。後年には、商業的絶頂期の終わりに発表された「見逃された傑作」として、多くのファンから高く評価されるようになった[149]。

ワーナー・ブラザース時代後期――再契約から解散まで(1996年–2011年)

体制の再編とワーナーとの大型再契約

モンスター・ツアー中に『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』の制作を進める一方、R.E.M.を長年支えてきた運営体制は大きな転換期を迎えていた。バンドはマネジメント、制作、レコード会社という三つの長期的な関係を同時に見直すことになった[150]。

1996年5月、R.E.M.は結成初期からマネージャーを務めてきたジェファーソン・ホルトとの契約を解除し、法務を担当してきたバーティス・ダウンズがマネジメントを引き継いだ。ホルトはバンドの知名度が低かった時期からツアー、レコード契約、宣伝活動を統括し、長年にわたり「5人目のメンバー」とみなされていた。しかし、1990年代前半からバンドとの意思疎通が次第に失われ、メンバーはホルトが運営への関心を低下させていると感じるようになっていた[151][152]。

契約解除後、『ロサンゼルス・タイムズ』は、アセンズの事務所に勤務していた女性従業員がホルトから性的な発言や要求を受けたとバンドへ訴え、メンバーが調査したことが解雇の契機になったと報じた。女性は訴訟や行政機関への申し立てを行わず、ホルトも疑惑を否定した。双方は契約解除の理由と条件を公表しないことで合意したため、詳しい経緯は明らかになっていない[153]。

また、共同プロデューサーのスコット・リットとの関係も悪化していた。リットは『ドキュメント』以来6作に参加し、R.E.M.の世界的成功を支えてきたが、当時は自身のレーベル「アウトポスト」の設立を進めており、制作への集中を失いつつあった。ホルトをめぐる対立も両者の関係を複雑にしたとされ、『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』がリットとR.E.M.による最後の共同制作となった[154]。

同じ時期、所属先のワーナー・ブラザース・レコードでも経営陣の交代が続いていた。親会社は1989年にタイム社と統合してタイム・ワーナーとなったが、合併に伴う巨額の負債を抱え、音楽部門にも収益性を重視した経営が求められるようになった。R.E.M.と強い信頼関係を築いていた幹部も相次いで退任したため、社内の混乱は契約を更新するか否かを判断するうえで大きな懸念となった[155]。

『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』は、1988年に結んだ5枚契約の最後の作品だったが、1996年8月24日、R.E.M.はワーナーとの契約継続を発表した[156]。『ロサンゼルス・タイムズ』は、新契約をアルバム5枚に対する総額8000万ドルの「史上最大のレコード契約」と報じた。バンドは金額の正確性を否定したが、ピーター・バックも当時最大規模の契約だったことは認めている。契約には将来のアルバムに対する前払金に加え、旧作カタログへの印税率24パーセントの遡及適用が含まれていたとされる。R.E.M.は原盤の所有権を保持し、一定期間ワーナーへ使用を許諾する従来の方針も維持した[157]。

この契約は、音楽業界の低い印税率や各種控除に対し、成功したアーティストが自らの価値に見合う条件を獲得した例でもあった。一方、慈善活動や社会運動への関与で知られ、目先の利益を優先しない姿勢を示してきたR.E.M.には、強欲あるいは偽善的であるとの批判も向けられた。ホルトの解雇と大型契約が相次いで報道されたことで、これまで表に出ることの少なかったバンドの事業面が注目を集め、一部の古くからのファンとの関係にも影響を及ぼした[158][159]。

ビル・ベリーの脱退――4人組の終焉

1997年3月、R.E.M.はハワイのマウイ島にあるピーター・バックの自宅に集まり、次作のデモ制作を開始した。しかし、ベリーはセッションに参加しながらも、ほかのメンバーが作業する間に浜辺で過ごすなど、制作への関心を失っていた。1995年の『モンスター』ツアー中に脳動脈瘤で倒れた経験に加え、マネージャーのジェファーソン・ホルトとの決別や自身の離婚も重なり、再びツアーへ出る意思をなくしていた[注釈 19][161]。

同年10月、バンドは新たな共同プロデューサーにパット・マッカーシーを迎え、アセンズで録音を再開した。10月6日のリハーサルを前に、ベリーはほかの3人へ、すでに気持ちがR.E.M.に向いておらず、脱退したいと伝えた。ただし、自身の脱退によってバンドが解散するのであれば、ほかのメンバーのために残るとも申し出た。ベリーは後に、脳手術を経験したことで人生の見方と優先順位が変化したと説明し、「もうポップスターではなくなってもいい時期だと思う」と語った[162]。

メンバーは、移動やツアーを避け、ベリーの農場で録音する案などを示して翻意を求めた。しかし、ベリーにとってはデモ制作、録音、旅行、取材を含むバンド活動そのものが精神的な負担となっていた。約3週間の話し合いの末、3人はその意思を尊重し、ベリー抜きでR.E.M.を継続することを決めた。ベリーは、バンドを解散させる原因にならずに済んだことを喜んだという[163]。

10月30日、ワーナー・ブラザースはベリーの友好的な脱退を発表した。同日、4人はアセンズの事務所でそろって地元メディアの取材に応じ、対立による決別ではないことを示した。スタイプは、ベリーが不幸なまま残るよりも、3人で変化に向き合うほうがよいと説明した。ベリーもアセンズ近郊に残って農場を営み、メンバーとの友情を維持する意向を表明した。翌31日のファンとのオンライン・チャットでは、「この件はもう終わりにして、彼らが素晴らしい音楽を作り続けられるよう、そっとしておいてほしい」と述べた[164]。

スタイプは、3人となったR.E.M.について、「3本脚の犬も犬には違いない。ただ、違う走り方を覚えなければならない」と表現した[165]。

『UP』(1998年) - 電子音楽への転換

UPツアー

ビル・ベリーの脱退後、R.E.M.は解散せず、スタイプ、バック、ミルズの3人で活動を継続した。1998年2月、スコット・マッコーイ、バレット・マーティン、プロデューサーのパット・マッカーシーとともにサンフランシスコで新作の録音を開始した。正式な後任ドラマーは置かず、ドラムマシン、シンセサイザー、古いキーボードのほか、ピアノの蓋や打楽器を詰めた鞄の音まで取り入れ、従来のギター・ロックから大きく離れた音作りを試みた。バックがベース、ミルズがキーボードを担当するなど、メンバーの役割も再編された[166]。

しかし、アセンズへ移ってからはベリー不在の影響が表面化した。スタイプは作詞に行き詰まり、制作の遅れからメンバー間の意思疎通も悪化した。一時は解散も検討されたが、1998年7月に話し合いを行い、互いの不満を率直に伝えたことで関係を修復した。アルバム後半のミックスにはナイジェル・ゴッドリッチも参加し、同年秋に『UP』が完成した。スタイプは、ベリーが「不在であることによって強く存在していた」作品だったと振り返っている[167]。

『UP』は1998年10月に発売され、全英2位、全米3位、ドイツ1位を記録した。しかし、アメリカでの初週売上は前作の約半分にとどまり、チャート順位も3位、16位、33位、63位と急速に下降した。一方、イタリアでは初週9万枚、1か月で約18万枚を売り上げた。1999年のツアー開始時までに、アメリカでは50万枚以上、ヨーロッパでは100万枚以上を売り上げ、イギリスではプラチナ認定を受けたものの、全体としては前作を下回る商業成績となった[168][169]。一方、批評家からは、新たな音楽性を模索した意欲作としておおむね好意的に評価された[170]。

当初は本格的なツアーを行わない予定だったが、ジョーイ・ワロンカー、マッコーイ、ケン・ストリングフェロウを加えたプロモーション公演を通じて演奏の楽しさを取り戻し、1999年にはツアーを実施した(アップ・ツアー)。セットリストには『UP』の楽曲に加え、初期の「ピルグリミッジ」「カヤホガ」「シッティング・スティル」なども採り入れられた。6月には初出演のグラストンベリー・フェスティバルで9万5000人を前にヘッドライナーを務めた。ツアーはアルバムの売上を押し上げ、『UP』はイギリスでプラチナ認定を受け、ヨーロッパ全体の売上も100万枚を突破した。バックは、このツアーを「これまでで最も楽しかったツアーの一つ」と振り返っている[171]。

『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)

アンディ・カウフマン

1999年、R.E.M.はコメディアンのアンディ・カウフマンを描いた伝記映画『マン・オン・ザ・ムーン』の音楽を依頼された。映画はミロス・フォアマンが監督し、ジム・キャリーがカウフマンを演じた。バンドは、カウフマンを題材とした既発表曲「マン・オン・ザ・ムーン」に加え、その姉妹作として「ザ・グレイト・ビヨンド」を書き下ろした[172]。

スタイプはカウフマンの人物像に入り込み、現実と演技の境界を曖昧にしたその芸風を歌詞に反映した。録音にはジョーイ・ワロンカー、スコット・マッコーイ、ケン・ストリングフェロウが参加し、パット・マッカーシーがプロデュースを担当した。「ザ・グレイト・ビヨンド」は、ストリングスとミルズのコーラスを生かした壮麗なバラードとなり、『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』期を思わせる音楽性を示した。また、ミルズとバックを中心に、ジャズやオーケストラを取り入れた映画本編の劇伴も制作された[173]。

同年11月に発売されたサウンドトラックには、両曲のほか、R.E.M.による劇伴や、キャリーとスタイプが共演した「ディス・フレンドリー・ワールド」などが収録された。アルバム自体は大きな商業的成功を収めなかったが、2000年にシングル化された「ザ・グレイト・ビヨンド」は全英3位を記録し、R.E.M.にとって当時までの全英最高位となった。同曲の豊かな編曲と明瞭な旋律は、実験色の強かった『UP』から、次作『リヴィール』の円熟したポップ・サウンドへ移行する橋渡しとなった[174]。

『リヴィール』(2001年)- 明朗なポップ・サウンドとアメリカでの人気急落

『UP』の困難な制作と1999年のツアーを経て、R.E.M.はメンバー間の関係を立て直した。12作目のスタジオ・アルバムでは発売日やツアーを先に決めず、作品が完成するまで時間をかける方針を採用した。スタイプは制作初期から歌詞とメロディーを用意してセッションに参加し、バックも即興性と速さを重視する従来の姿勢を抑えた。プロデュースは引き続きパット・マッカーシーが担当し、ジョーイ・ワロンカー、スコット・マッコーイ、ケン・ストリングフェロウも参加した[175]。

基礎録音は2000年5月、カナダ・バンクーバーのウェアハウス・スタジオで行われた。『UP』で中心となったシンセサイザーは、従来の楽器に取って代わるものではなく、ギター、ピアノ、オルガン、ドラムを補うために使用された[176]。歌詞とボーカルの制作は同年8月から10月にかけて、ダブリン郊外のダルキーで進められた。スタイプは作詞の行き詰まりを避けるため、テルアビブ、イタリア、フランス、デンマークなどを旅しながら作業した。暖かい気候と夏への期待を表現する「サマー・レコード」を目指し、「アイル・テイク・ザ・レイン」「ビーチボール」「サマー・ターンズ・トゥ・ハイ」などを書いた。テルアビブでファンに語った「姿を消すために来た」という言葉は、「ディサピア」の中心的な歌詞となった。アルバム名は「アイヴ・ビーン・ハイ」の歌詞から『リヴィール』と名づけられた。[177]

本作は幻想的な電子音、オーケストラ、穏やかな歌唱を組み合わせたミッドテンポの楽曲を中心とし、ビーチ・ボーイズやバート・バカラックからの影響が指摘された。実験色の強かった前作と比べ、旋律とアルバム全体の統一感が重視され、「イミテイション・オブ・ライフ」ではバックのジャングリーなギターも復活した。批評家の評価は地域によって分かれた。イギリスでは特に高く評価され、『Q』誌は5つ星を与え、『インデペンデント』紙も、作品の深み、多様性、繊細さとスタイプの歌唱を称賛した[178]。

一方、アメリカでは『ローリング・ストーン』誌は4つ星、『USAトゥデイ』紙も好意的に評価したものの、『ワシントン・ポスト』紙は「ここ何年かで最も退屈なR.E.M.作品」と酷評し、『ニューヨーク・オブザーバー』紙も「ひどいアルバムではないが、耐えがたいほど退屈」と評した。『ボストン・グローブ』紙や『SonicNet』は、スタイプの歌詞が過度に装飾的で、均一な歌唱とテンポが眠気を誘うと批判した。さらに、2002年初頭に発表された『ヴィレッジ・ヴォイス』紙の「パズ&ジョップ」批評家投票では、600人以上が参加したにもかかわらず、『リヴィール』は上位50作にも入らなかった[179][180]。

先行シングル「イミテイション・オブ・ライフ」は全英6位となり、前作「ザ・グレイト・ビヨンド」に続いて2作連続の全英トップ10入りを果たした[181]。そして2001年5月に発売された『リヴィール』は、イギリス、イタリア、オーストリア、アイルランド、ノルウェー、スイスで1位を獲得し、ドイツでも初登場後に首位へ上昇した。日本、タイ、オーストラリア、カナダ、フランスなどでもトップ10入りした。イギリスでは初週11万枚、イタリアでは初週13万枚を売り上げ、イタリアでは発売初週にプラチナ認定を受けた。発売後1か月でヨーロッパにおける売上は100万枚を突破し、約20の地域ではセカンド・シングル発売前に『UP』の総売上を上回った[182]。

一方、本国アメリカでは著しい不振に陥った。「イミテイション・オブ・ライフ」は約1万5000枚しか売れず、全米83位にとどまった。アルバムも初登場6位と、サウンドスキャン導入後のR.E.M.作品として最低の初登場順位を記録し、その後急速にチャートから姿を消した。過去11作のスタジオ・アルバムがアメリカで累計2000万枚以上を売っていたのに対し、『リヴィール』は約30万枚にとどまった。バックは「昔はアトランタから半径50マイル以内だけで30万枚を売っていた」と困惑を示した[182]。

アメリカでの不振については、当時の市場がラップ・メタルやポップ・パンクを中心としていたこと、長年R.E.M.を支えたワーナー・ブラザースの幹部や担当者が相次いで退社したこと、バンド自身もアメリカで本格的な発売記念公演を行わなかったことなどが原因として挙げられた。ワーナーはテレビCMへの楽曲提供、著名なヒット・プロデューサーの起用、ベスト・アルバムの発売などを求めたとされるが、バンドはいずれも拒否した。セカンド・シングル「オール・ザ・ウェイ・トゥ・リノ」のアメリカ向けプロモーション盤には、世界各地での成功を強調する『Not Bad for No Tour』という弁明的な題名が付けられた。『リヴィール』が国外で商業的・批評的成功を収める一方、アメリカではR.E.M.が主流の支持を失ったことを明確に示す作品となった[183]。

『イン・タイム』――過去との再会

R.E.M. (2003年)

のちに『アラウンド・ザ・サン』となる新作の制作中だった2003年、R.E.M.はスタジオ作業を中断し、ワーナー・ブラザース時代を総括するベスト・アルバム『イン・タイム:ザ・ベスト・オブ・R.E.M. 1988–2003』を発表した。背景には『リヴィール』がアメリカで不振に終わったことを受け、所属レーベルとの関係を修復する意図もあった。アルバムには1988年以降の代表曲に加え、新曲「バッド・デイ」と「アニマル」が収録された[184]。

アルバム発売に先立ち、R.E.M.は5年ぶりとなる本格的なワールド・ツアーを行った(イン・タイム・ツアー)。2003年夏にはグラストンベリー・フェスティバル、T・イン・ザ・パーク、ウェルフテルなど、ヨーロッパ各地の主要フェスティバルでヘッドライナーを務め、秋には北米の野外劇場とアリーナを巡った[185]。ツアーでは、ベスト盤の対象外だった「マップス・アンド・レジェンズ」「リトル・アメリカ」「アイ・ビリーヴ」などのI.R.S.時代の曲を積極的に復活させた。10月10日のノースカロライナ州ローリー公演では、元メンバーのベリーが「レディオ・フリー・ヨーロッパ」のバックボーカルと「パーマネント・ヴァケーション」のドラムを担当し、1997年の脱退以来初めてR.E.M.と共演した[186]。

『イン・タイム』は2003年10月に発売され、イギリス、ドイツ、オーストラリアなどで1位を獲得し、アメリカでもトップ10入りした。アメリカでは発売後2週間で13万枚を売り上げ、最終的にプラチナ認定を受けた。R.E.M.のアルバムが同国で100万枚に達したのは、『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』以来だった。イギリスでは5倍プラチナ、オーストラリアでは4倍プラチナ、ドイツでは2倍プラチナに認定され、シングル「バッド・デイ」も全英トップ10入りした[187]。

本作とツアーは、R.E.M.が依然として世界的なライブ・バンドであり、豊富な旧作を持つ人気アーティストであることを示した。一方、往年の楽曲を求める観客を大規模会場へ集めたことで、バンドが懐古的な巡業へ移行する危険も生じた。『イン・タイム』以降、公式のベスト盤やライブ作品は、新作スタジオ・アルバムより多く発売されることになり、本作はR.E.M.の過去が未来を追い越し始めた転換点とも位置づけられた[188]。

『アラウンド・ザ・サン』(2004年) - 制作の停滞と酷評

『リヴィール』がヨーロッパを中心に成功したため、R.E.M.は引き続きパット・マッカーシーをプロデューサーに起用し、セミアコースティックでミッドテンポの路線を継続した。しかし、それまで前作とは異なる音楽性を意識的に選んできたバンドが、初めて安全で慣れ親しんだ方法を選んだことで、制作は停滞していった。2002年末からバンクーバーのウェアハウス・スタジオで録音を始め、2003年初頭にも長期間作業したが、多数のアイデアに対して完成曲は少なかった[189]。

2003年3月、アメリカ主導のイラク侵攻開始から3日後、R.E.M.は反戦歌「ファイナル・ストロー」を公式サイトで公開した。スタイプは自らを「世界で最も怒れる平和主義者」と表現し、暴力ではなく愛を武器に抵抗する姿勢を歌った。しかし、アルバム制作はその後中断され、バンドはベスト盤『イン・タイム』の発売とツアーを優先した。「ファイナル・ストロー」が正式に収録されたのは18か月後であり、完成版は音響的に整えられた一方、発表時の切迫感を失っていた[190]。

『イン・タイム』のツアー終了後、2004年1月にアセンズで制作を再開し、バハマのコンパス・ポイント・スタジオ、マイアミのヒット・ファクトリーへ移った。過去の素材と新曲を組み合わせ、スタイプの歌詞やメロディーに合わせて楽曲を繰り返し作り直した結果、録音には異例の長期間を要した。メンバーは一日の作業後にワインを飲みながら夕食を取り、再びスタジオへ戻って細部を修正することを繰り返した。バックは完成前の素材について「半年間いじり回す前には、素晴らしいアルバムができていた」と振り返っている[191]。

制作初期には「バッド・デイ」「アニマル」のほか、「アイム・ゴナ・DJ」「マンサイズド・リース」「リヴィング・ウェル・イズ・ザ・ベスト・リヴェンジ」の原型など、速く実験的な曲も存在した。しかし前2曲は『イン・タイム』へ収録され、残る曲もアルバムから除外された。「アフターマス」も、12弦ギターを使用した速い初期版から、遅く重い編曲へ変更された。その結果、完成作はミッドテンポの曲へ偏り、マッコーイは『UP』『リヴィール』『アラウンド・ザ・サン』を、ベリー脱退後のR.E.M.がバンドとしてのあり方を模索した「三部作」と位置づけたうえで、本作ではその方法が限界に達したと評した[192]。

メンバー間の意思疎通も悪化していた。スタイプは後に、数作にわたって3人が友人としてもバンド仲間としても互いに話していなかったと認めた。終わりの見えない作業に苛立ったバックは、ミックスが始まる前にマイアミを離れた。完成版では彼のエレクトリック・ギターが小さく抑えられ、ほとんど聞こえない曲もあった。バックは制作をイラク戦争になぞらえ、「なぜ始めたのか、どう終わらせるのか、何を成し遂げようとしているのか分からなかった」と述べた。マッカーシーを公然と非難することは避けたが、本作が両者の最後の共同制作となった。[193]

先行シングル「リーヴィング・ニューヨーク」は、スタイプが第二の故郷ニューヨークへ宛てたラブソングで、全英5位を記録した。アルバムでは、電子音を生かした「エレクトロン・ブルー」、Qティップを迎えた「ジ・アウトサイダーズ」、イラク戦争を批判した「アイ・ウォンテッド・トゥ・ビー・ロング」などが収録された。しかし、多くの曲が毎分90拍前後のテンポ、アコースティック・ギター、シンセサイザーによるストリングス、単調なドラムという似通った編曲を持ち、約1時間の収録時間も冗長さを強めた[194]。

2004年10月に『アラウンド・ザ・サン』が発売されると、イギリスでは初登場1位となり、直近7作中6作目の首位獲得となった。オーストラリア、ドイツ、スウェーデン、ノルウェーなど7か国でも上位に入ったが、批評家からは広く酷評された。『NME』は「本当に失望させられた最初のR.E.M.作品」、『Mojo』は「最初から最後まで退屈な、初のR.E.M.アルバム」、『Q』は「容赦なく、苛立たしいほど遅い」と評した。『ガーディアン』紙は「R.E.M.にとって初めて本当に不要なアルバム」と結論づけ、アメリカでも『ピッチフォーク』や『スピン』、『オールミュージック』などが、個性、活力、方向性の欠如を批判した[195]。

アメリカでの商業成績も低迷した。「リーヴィング・ニューヨーク」は全米トップ100入りを逃し、アルバムの初週売上は6万枚と『リヴィール』の半分以下だった。全米トップ10入りを逃したのは『グリーン』以来であり、ゴールド認定を受けなかった最初のR.E.M.のアルバムとなった。最終的なアメリカでの売上は約20万枚にとどまり、1983年に『マーマー』が発売後1年間で記録した数字とほぼ同じだった[195]。

発売直後、R.E.M.は大統領選挙でジョージ・W・ブッシュの再選を阻止するため、「ヴォート・フォー・チェンジ」ツアーに参加した。ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドと共演したが、民主党候補ジョン・ケリーは敗北した[196]。

一方、作品への酷評とは対照的に、2004年末から2005年にかけてのツアーは成功した(アラウンド・ザ・サン・ツアー)。約30か国を訪れ、ヨーロッパでは大規模な会場を完売させた。日本では2005年3月16日に日本武道館、17日に愛知県芸術劇場、18日に大阪国際会議場(グランキューブ大阪)で公演を行った[197]。録音版では抑制されていた「リーヴィング・ニューヨーク」「ファイナル・ストロー」「エレクトロン・ブルー」なども、ライブでは力強い楽曲へ変化した。2005年7月にはLIVE 8へ出演し、ロンドン同時爆破事件によって延期されたハイド・パーク公演をツアー最終日に開催した。スタイプはこれを「最も楽しく、最も充実したツアー」と振り返ったが、バックは後に「それまでで最高の演奏ができた。残念ながら、ライブで演奏するための優れた新作がなかった」と総括した[198]。

ロックの殿堂入り――オリジナル4人の最後の共演

2007年、最初の正式なレコード『クロニック・タウン』の発売から25年を迎えたR.E.M.は、資格取得初年度にロックの殿堂入りを果たした。同年には、R.E.M.結成のきっかけとなった音楽家の一人であるパティ・スミスのほか、ロネッツ、ヴァン・ヘイレン、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ(英語版)も殿堂入りした。[199]

3月にニューヨークのウォルドルフ=アストリアで行われた式典では、エディ・ヴェダーがベリーを含む4人を紹介した。受賞スピーチでミルズはメンバーを「僕の人生を変えた」人々と呼び、前年に死去したイアン・コープランドを追悼した。スタイプは、家族や友人、歴代のスタッフ、プロデューサー、I.R.S.時代の関係者を起立させ、バンドの成功への貢献に感謝した[200]。

4人は「ビギン・ザ・ビギン」「ガーデニング・アット・ナイト」を演奏し、「マン・オン・ザ・ムーン」ではヴェダーが加わった。続いてスミスとレニー・ケイを迎え、当時まだ殿堂入りしていなかったストゥージズへの抗議として「アイ・ウォナ・ビー・ユア・ドッグ」を演奏した。最後はスミス、ヴェダー、ロニー・スペクター、サミー・ヘイガー、スティーヴン・スティルス、キース・リチャーズらと「ピープル・ハヴ・ザ・パワー」を共演した[201]。

一連の再結成によってベリーの復帰を期待する声も生まれたが、本人はバンド活動へ戻る意思を示さなかった。バックは、ベリーを今もメンバーの一人だと感じている一方、殿堂入り式典への出演だけでも数か月にわたって不安を抱えるほど、音楽業界の活動が彼に大きな負担を与えていたと説明した。この式典が、ベリーにとってR.E.M.との最後の公演となった[202]。

『アクセラレイト』(2008年)- 原点回帰とロック・バンドの復活

R.E.M. (2008年)

『アラウンド・ザ・サン』の制作が長期化したことへの反省から、バックは次作を短期間で録音することを主張した。バンドはスコット・マッコーイとビル・リーフリンを加えた5人編成となり、過剰なキーボードやオーバーダビングを避けるため、ケン・ストリングフェロウは制作から外れた。プロデューサーには、スノウ・パトロールやブロック・パーティーを手がけ、U2の『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』にも参加したジャックナイフ・リーが起用された[注釈 20][204]。

リーは近年のR.E.M.が一体のバンドとして機能せず、メンバーが個別に作業していたことを問題視した。プロデューサーの重要な役割は音作りだけでなく、「全員を同じ部屋に集め、互いに話をさせること」だと考え、メンバーを同じ場所で演奏させ、一曲ごとに話し合ったうえで機材を組み直す制作方法を採用した。これによって各曲に異なる音を与えるとともに、その時点で録音する一曲だけに全員の意識を集中させた。2007年春にバンクーバーのアーモリー・スタジオで行われたセッションでは、バッキング・トラックの大半が3テイク以内に録音され、表題曲「アクセラレイト」は初演奏のテイクがそのまま採用された[205]。

同年6月30日から7月5日まで、ダブリンのオリンピア・シアターで5夜にわたる「ライブ・リハーサル」を開催した。毎晩約11曲の新曲を演奏する一方、「ハーバーコート」「リトル・アメリカ」「1,000,000」など、1980年代以来となる初期曲も披露した。スタイプは演奏中に改善点を記録し、「マン・サイズド・リース」などの構成や歌詞が公演を通じて練り直された[注釈 21][206]。

仕上げの録音は、1985年の映画『アセンズ・ジョージア――インサイド/アウト』にも登場したアセンズのステニー=ストーヴァル礼拝堂で行われた。リーは、食後に録音を再開して曲を際限なく修正する従来の習慣を禁じ、完成した楽曲からメンバーを離れさせた。アルバムは全11曲、35分弱にまとめられ、これは『アウト・オブ・タイム』以降では最少の曲数であり、R.E.M.のスタジオ・アルバムとして最短の収録時間となった[207]。

2008年4月に発売された『アクセラレイト』は、前作の緩慢で過剰に加工された音作りから一転し、ギターを前面に出した簡潔で攻撃的なロック・アルバムとなった[208]。批評家からはおおむね高く評価され、『スピン』や『NME』は、政治性と荒々しい演奏を備えた『ライフス・リッチ・ページェント』『ドキュメント』期への回帰と評した。『Q』誌は「名誉を回復し、復活を遂げ、抗いがたい」作品、『モジョ』誌は「10年間の芸術的危機を勝利のうちに解決した」作品とした。全英アルバムチャートをはじめ、アイルランド、デンマーク、カナダ、スイス、ノルウェーで1位を獲得した。アメリカでは初登場2位となり、『ニュー・アドベンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』以来の高順位を記録した。初週売上は11万5000枚で、『アラウンド・ザ・サン』の約2倍に達した[209]。

同年5月から11月にかけて、31か国を巡るワールド・ツアーを実施した(アクセラレイト・ツアー)。ザ・ナショナル、モデスト・マウスが前座を務め、元ザ・スミスのジョニー・マーも「フォール・オン・ミー」や「マン・オン・ザ・ムーン」に参加した。11月4日のチリ・サンティアゴ公演中にアメリカ大統領選挙でバラク・オバマの当選が確実になると、スタイプはオバマのTシャツに着替え、観客とともに「アイ・ビリーヴ」を演奏した。ツアーは11月18日のメキシコシティ公演で終了した[210]。

『コラプス・イントゥ・ナウ』 (2011年) - 最後のアルバムと静かな別れ

2008年のアクセラレイト・ツアー中、3人はバンドの将来について話し合い、それぞれが活動を終えることが最善との結論に達した。スタイプによれば、バンドが再び上昇局面に入ったと実感したからこそ、「尻尾を巻いて弱々しく消える」のではなく、自分たちが力の頂点にあるうちに終わることを望んだという。ミルズも、ツアー中に複数の選択肢を検討した末、3人が個別に解散という結論へ至り、互いにその考えを明かすと進むべき方向で一致したと述べている。ただし、その時点でもう一枚アルバムを制作することは既定方針であり、正式な解散決定は関係者にも伏せられた[211]。

2009年11月、バンドは15作目のスタジオ・アルバムの制作を開始した。スタイプの声帯に適した温暖な場所を探した末、ハリケーン・カトリーナ後の地域経済を支援する意図もあり、録音地にはニューオーリンズが選ばれた。ジャックナイフ・リーが引き続きプロデュースを担当し、『アクセラレイト』に参加したサム・ベルとトム・マクフォールも起用された。ミュージック・シェッドで行われた3週間のセッションでは、多くの演奏が3テイク以内に録音された。当初はギター2本、ベース、ドラムを中心とした曲が多かったが、メンバーは「『アクセラレイト』パート2」となることを避け、速い曲と遅い曲、大音量の曲と静かな曲を併せ持つ作品を目指した[212]。

2010年夏には、ベルリンのハンザ・スタジオで3週間のセッションを行った[注釈 22]。「ウーバーリン」はベルリンへのラブソングとして書かれ、「アリゲーター・アヴィエイター・オートパイロット・アンチマター」にはピーチズとレニー・ケイ、「イット・ハプンド・トゥデイ」にはヒドゥン・カメラズのジョエル・ギブとエディ・ヴェダーが参加した。「オール・ザ・ベスト」「オー・マイ・ハート」などを、互いに向き合って演奏した。「ディスカヴァラー」を終えたスタイプは涙をこらえながら、非公開部分で「万歳、終わった」と述べており、これがR.E.M.による最後のライブ演奏となった[213]。

仕上げはナッシュビルで行われた。リーは、以前に録音されながら未使用だったスタイプのスポークン・ワードを、ハンザ最終日の即興演奏と組み合わせて「ブルー」を制作した。同曲にはパティ・スミスとレニー・ケイが参加し、スミスはスタイプの歌詞にあった「20th century collapse into now」という一節から、アルバム・タイトルを『コラプス・イントゥ・ナウ』とすることを提案した。「ブルー」の最後では冒頭曲「ディスカヴァラー」が再現され、リーによれば、アルバムだけでなくバンドの活動全体を「両端から挟む」構成となった。録音終了前夜、バックは関係者を夕日を見るために連れ出し、全員がバンドの終わりを認識した[214]。

2011年3月に発売された本作は、パンク、フォーク、バラード、ピアノ、アコーディオン、マンドリンなど、R.E.M.が過去30年間に用いてきた音楽的要素を集約した作品となった[注釈 23]。批評はおおむね好意的で、『ローリング・ストーン』誌は4つ星を与え、『ヴィレッジ・ヴォイス』紙は「R.E.M.が再びR.E.M.になる方法を見つけた」と評した。一方、過去作品の自己模倣との批判もあり、アルバム全体より各曲を先に公開するオンライン宣伝や、発売に伴うツアーを行わなかったことも商業成績に影響した。ドイツでは1位を獲得したが、アメリカとイギリスでは最高5位にとどまり、特にイギリスでは『アウト・オブ・タイム』以降初めて、スタジオ・アルバムが2位以内に入らなかった[216]。

解散とその後

解散発表と反響

ファンと友人の皆様へ:R.E.M.として、そして生涯の友人であり共謀者として、私たちはバンドとしての活動を終えることにしました。私たちは、これまでの功績に対する感謝と、終焉と、驚きの気持ちでこの場を去ります。私たちの音楽に心を動かされたすべての方々に、聴いてくださったことに心から感謝いたします。
R.E.M., [217]

2011年9月21日、R.E.M.は公式サイトを通じて解散を発表した。「生涯の友人であり共謀者」として、感謝と達成感を胸に活動を終えると表明し、ミルズは「不和も、仲違いも、対立する弁護士もいない」と、全員による友好的な決断であることを強調した。スタイプは「パーティーに参加する技術とは、立ち去るべき時を知ることだ」と記し、「僕たちは途方もないものを一緒に築いた。そして今、そこから立ち去る」と結んだ[218]。

発表直後には「まだ解散していなかったのか」という冷笑的な反応もあったが、やがて多数の追悼的な記事やファンの回想が発表された。とりわけアメリカでは、1980年代から1990年代初頭に青春期を過ごした世代の「サウンドトラック」として、ヨーロッパでは複数世代にまたがる国際的ロック・バンドとして、その功績が再評価された。ミルズは「退屈したからでも、優れた音楽を作れなくなったからでもない」と述べ、『アクセラレイト』と『コラプス・イントゥ・ナウ』を自らが最も好むR.E.M.作品に挙げた[219]。

同年11月には、I.R.S.時代とワーナー・ブラザース時代の双方を収録したベスト・アルバム『パート・ライズ、パート・ハート、パート・トゥルース、パート・ガーベッジ 1982–2011』が発売された。最後の新曲の一つ「ウィ・オール・ゴー・バック・トゥ・ホエア・ウィ・ビロング(僕たちは皆、自分の居場所へ帰っていく)」には、キルスティン・ダンストとビート詩人ジョン・ジョルノをそれぞれ撮影した2種類のミュージック・ビデオが制作された。題名は愛する相手への言葉であると同時に、メンバーがそれぞれの居場所へ帰るという解散後の状況も想起させるものとなった[220]。

解散後の活動

解散後、ピーター・バックは最も精力的に音楽活動を継続した。スコット・マッコーイらと短期間で制作したセルフタイトルのソロ・アルバムを2012年にアナログ盤限定で発表し、その後もソロ作品を制作した[221]。ザ・マイナス5、ザ・ベースボール・プロジェクト、ロビン・ヒッチコック&ザ・ヴィーナス3などで活動を続け、コリン・タッカーらとのフィルシー・フレンズにも参加した。バックは解散の理由について、スタイプが長期間バンドを離れたいと述べた際に、自ら「永久に、というのはどうだ」と提案し、3人が合意したと説明している[222]。

マイク・ミルズは他の音楽家との共演を続ける一方、ヴァイオリニストのロバート・マクダフィーのために初のクラシック作品『ヴァイオリン、ロック・バンドと弦楽オーケストラのための協奏曲』を作曲し、2016年に録音を発表してツアーも行った[223]。また、ザ・ベースボール・プロジェクトへの参加や、R.E.M.作品を演奏する企画にも随時出演した。

マイケル・スタイプは写真、彫刻、映像制作などの美術活動へ比重を移し、作品集や展覧会を発表した。音楽活動からはしばらく距離を置いたが、2019年に初の正式なソロ・シングル「ユア・カプリシャス・ソウル」を発表し、収益を環境保護団体エクスティンクション・レベリオンへ寄付した[224]。その後も「ドライヴ・トゥ・ジ・オーシャン」や、アーロン・デスナーとの共作「ノー・タイム・フォー・ラヴ・ライク・ナウ」などを発表した[225]。

ビル・ベリーは農場を中心とする生活を続けながら、散発的に演奏へ参加した。2022年にはザ・バッド・エンズを結成し、翌2023年1月にデビュー・アルバム『ザ・パワー・アンド・ザ・グローリー』を発表した[226]。

再結成の否定と例外的な共演

メンバーは一貫して本格的な再結成を否定している。2021年、スタイプは再結成を「格好が悪く、金目当てに見える」として、実現しないと明言した。2024年6月、4人がソングライターの殿堂入りを前に行った共同インタビューでも、再結成には「彗星」や「強力接着剤」が必要だと冗談を交え、「以前ほど良いものにはならない」と述べた[227]。

ただし同月の殿堂入り式典では、オリジナル・メンバー4人が「ルージング・マイ・レリジョン」をアコースティックで演奏した。4人が公の場で共演するのは2007年以来だったが、これは式典に限った演奏であり、活動再開とは位置づけられなかった[228]。2025年2月にも、ジョージア州アセンズの40ワット・クラブで行われたマイケル・シャノンとジェイソン・ナーデューシーによるR.E.M.のトリビュート公演に4人が登場し、「プリティ・パースウェイジョン」を演奏した[229]。ただし、これは一夜限りの共演であり、バックは後に本格的な再結成を改めて否定している[230]。

後年の再評価

解散後は、各アルバムの周年記念盤、未発表音源、ライブ作品の再発が進み、『マーマー』『レコニング』『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』『モンスター』『UP』などが新たな世代の批評家や聴衆によって再検討された。一方、R.E.M.のファン内部には、I.R.S.時代、とりわけ『マーマー』を絶対的な基準とし、ワーナー移籍後の世界的成功を商業化とみなす傾向も長く存在してい[231]る。バンドが再結成ツアーによる露出を避けたため、若い世代における知名度の低下も指摘されている一方、その姿勢は、成功の絶頂ではなく自らが納得した時点で活動を終えた例として評価されている[232]。

2023年には、テレビドラマ『一流シェフのファミリーレストラン(The Bear)』第2シーズンで「ストレンジ・カレンシーズ」が繰り返し使用され、登場人物の感情を象徴する楽曲として注目を集めた。R.E.M.とFXはドラマ映像と1995年のライブ映像を組み合わせた「ストレンジ・カレンシーズ(リミックス)」の新たなミュージック・ビデオを共同制作した[233]。

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

日本公演

脚注

注釈

  1. ↑ B-52'sは、フレッド・シュナイダー、ケイト・ピアソン、シンディ・ウィルソン、その兄リッキー・ウィルソン、キース・ストリックランドの5人が1976年にアセンズで結成した。ベースを置かず、安価なギター、オルガン、ボンゴ、テープレコーダーなどを用い、パンク・ロック、サーフ・ミュージック、ダンス音楽に、キャンプ趣味、古着による奇抜な衣装、シュナイダーの語りに近い歌唱、女性二人のハーモニーを組み合わせた。名称は、ピアソンとシンディが着用した1950年代風の蜂の巣形ヘアスタイルの通称に由来する。 1977年にDBレコードから「ロック・ロブスター」を発売した後、ワーナー・ブラザース・レコードと契約し、1979年のデビュー・アルバム『警告! THE B-52'S来襲』は100万枚以上を売り上げた[18]。 ピーター・バックはその衝撃について、「B-52’sがダニー・ベアードのレーベルから最初のシングルを出したときは、本当に衝撃を受けたよ。『この人たちはレコードを作ったんだ。しかも、それを僕が買える!』ってね。それから彼らがワーナー・ブラザースと契約したときは、前例のない出来事だった。文字どおり、それまでジョージア州出身でレコード契約を結んだのは、ビールとブギーとカウボーイハットの類いの音楽をやる連中だけだったんだ」と回想している[19]。
  2. ↑ パイロンは、ジョージア大学美術学部の学生だったギタリストのランディ・ビューリーとベーシストのマイケル・ラコウスキーが、1978年秋に始めたプロジェクトを母体とする。当初の目標は、ニューヨークで演奏して『New York Rocker』誌に記事が掲載されたら解散することであり、自分たちを通常のロック・バンドというより、ロック・バンドを題材としたパフォーマンス・アートと捉えていた。パーティーで彼らを見たB-52'sのフレッド・シュナイダーとケイト・ピアソンがデモテープをニューヨークのクラブ関係者に紹介し、パイロンはハラーでギャング・オブ・フォーの前座を務めた。DBレコードから『Gyrate』(1980年)と『Chomp』(1983年)を発表したが、音楽活動が楽しみよりもビジネス中心になったと判断し、1983年12月に解散した。R.E.M.はパイロンをアセンズで最も好きなバンドの一つに挙げ、1985年には「Crazy」をカバーしている。[20][21][22]R.E.M.によるカバーや、ドキュメンタリー映画『Athens, GA: Inside/Out』によって新しい聴衆から注目されたことを受け、1988年に再結成し、アルバム『Chain』(1990年)を発表したが、1992年に再び解散した
  3. ↑ ヨーロッパでカルト的人気を集め、デビューしてすぐにアセンズを離れた。
  4. ↑ 1980年頃には、アセンズの音楽家や芸術家の多くがバーバー・ストリート周辺に集まって暮らしていた。パイロンのマイケル・ラコウスキーとカーティス・クロウは同じ建物に住み、その階下にはラヴ・トラクターのマーク・クライン、通りを挟んだ向かい側にはスタイプが暮らしていた。近くの空き地は「パイロン・パーク」と呼ばれ、夏にはテーマを設けたパーティーやライブ演奏が頻繁に行われた。一時期、バーバー・ストリートの約2ブロックには、R.E.M.、パイロン、ラヴ・トラクター、メソッド・アクターズ、サイド・エフェクツのメンバーのほぼ全員に加え、各バンドのマネージャーや友人、詩人、画家らが居住していた。その後、音楽家たちの居住地域はグレイディ・アベニューなどにも広がり、一帯は「ザ・ブールバード」と呼ばれるようになった。R.E.M.の4人も、後に全員がこの地域に住宅を所有した[23]。
  5. ↑ 初対面の際、マイクはひどく酒に酔っていて、バーのカウンターに寝そべっていた。そんなマイクの様子に悪印象を抱いたマイケルとピーターは「絶対にあんな奴とバンドは組まない」と誓った。
  6. ↑ スタイプはR.E.M.と並行して、短命のノイズ・バンド、Gaggle O. Soundで活動したのち、1981年にVietnamのギタリスト、リー・セルフらと実験音楽バンド、Tanzplagenを結成した。その意図はR.E.M.で下がっていたアセンズでの評価を回復することにあった。 スタイプはボーカルとファルフィッサ・オルガンを担当し、楽器を蹴ったり倒したりするパフォーマンスも行った。バンドは近隣州を巡るツアーとシングルの録音を行ったが、予定されていたDasht Hopesからの発売は、R.E.M.のI.R.S.レコード契約に伴い中止された。
  7. ↑ ベリーはR.E.M.結成後、一時期ラヴ・トラクター(Love Tractor)というバンドのドラマーも兼任していた。1981年春にはLラヴ・トラクターへ専念するためR.E.M.を脱退する意向を示したが、両バンドの将来性と活動への姿勢を比較した結果、ラヴ・トラクターを離れ、R.E.M.に専念した。
  8. ↑ ミッチ・イースターは、のちにベン・フォールズ・ファイヴ、ヴェルヴェット・クラッシュ、スザンヌ・ヴェガのプロデュースやミキシングを手がけ、自らもLet's Active というバンドを結成して、I.R.S.からアルバムを発表した。
  9. ↑ マイルス・コープランド3世の父マイルス・コープランド2世は、CIAの創設に関わり、中東で工作活動に従事した人物で、本人によれば、上司からガマール・アブドゥル=ナーセル暗殺の可能性を検討するよう命じられたこともあった。母ロレインは、英国の特殊作戦執行部に勤務した経験を持つ考古学者だった[38]。 こうした家庭環境を反映して、兄弟が設立・運営した企業には諜報・警察機関を思わせる略称が多用された。マイルスが創設したレーベルI.R.S.は「International Record Syndicate」、弟イアン・コープランドが社長を務めた音楽エージェント会社F.B.I.は「Frontier Booking International」、ロサンゼルスのマネジメント会社L.A.P.D.は「Los Angeles Personal Direction」の略称である。また、映画・テレビ制作部門には、コープランド3兄弟と同僚デレク・パワーにちなむC.C.C.P.という名称が付けられた。 このほか、マイルスはイギリスでイリーガル・レコードを設立しており、一連の名称には、音楽業界におけるコープランド家特有の言葉遊びが表れている。なお、ポリスを結成して命名したのはマイルスではなく、弟のスチュワート・コープランドであり、マイルスはのちに同バンドのマネージャーを務めた
  10. ↑ 『夢の肖像』完成後の休暇中、スタイプを除くピーター・バック、マイク・ミルズ、ビル・ベリーは、アセンズでブライアン・クックをボーカルに迎え、別名義のバンド「ヒンドゥー・ラヴ・ゴッズ(Hindu Love Gods)」を結成した。R.E.M.が初期に演奏していた曲やカバー曲を中心に、1984年1月から40ワット・クラブなどで活動した。同年春にはウォーレン・ジヴォンをピアノに迎え、「ナレーター」とイージービーツの「ゴナ・ハヴ・ア・グッド・タイム・トゥナイト」を録音し、両曲は1986年にI.R.S.から発売された[62]。
  11. ↑ 本来であれば、「Life's Rich Pageant」と表記されるはずである。
  12. ↑ 実際、スタイプはこの時期、「地球規模で考え、地域で行動する」を実践し、連邦議会選挙で候補者を支援するとともに、アセンズ市議会にも出席して地域開発について意見を述べた。彼が支持した候補者は当選し、バーティス・ダウンズの法的支援も得て、営利目的の建物の解体・建設計画の一部を阻止した[82]。
  13. ↑ 無論、批判も存在した。音楽ジャーナリストのマイケル・アゼラッドは、R.E.M.がI.R.S.レコードからワーナー・ブラザース・レコードへ移籍した後、スタイプの不明瞭な歌唱やバックの騒々しいギター、ミルズの変則的なハーモニー、入り組んだ楽曲構成といった初期の特徴を失い、商業的成功と引き換えに独自性を弱めたと批評している[109]。
  14. ↑ ダニエル・ラノワのスタジオで録音した。
  15. ↑ この噂の背景には、1991年にフレディ・マーキュリーがエイズに伴う合併症で死去し、イギリスのメディアが著名人のHIV感染や性的指向を盛んに報じていたことがあった。スタイプは以前から私生活を公にせず、自身の性的指向についても肯定も否定もしなかったため、メディアはエイズ説を通じて彼が同性愛者であると暗示した。スタイプは後に自身のセクシュアリティを「判別不能、あるいは明言されていない」と表現している[123]。
  16. ↑ 死亡当日、フェニックスは、ジョニー・デップが共同経営する「ヴァイパー・ルーム」で演奏に参加する予定だったが、出演前に薬物を摂取し、店外で倒れて23歳で死亡した。死因はコカインとヘロインの過剰摂取とされた[128]。
  17. ↑ ダブリン出身のレコーディング・エンジニア、音楽プロデューサー。若手時代にU2の『ヨシュア・トゥリー』へアシスタント・エンジニアとして参加した。「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」の録音が難航した際、ブライアン・イーノは、最初から録り直させるため「事故を装って」録音済みのテープを消去しようとした。別室から茶を運んで戻ったマッカーシーは、その場面を目撃して盆を落とし、イーノを物理的に制止したという。 その後、カウンティング・クロウズのデビュー作『オーガスト・アンド・エヴリシング・アフター』に携わり、その仕事に感銘を受けたスコット・リットの推薦で『モンスター』の録音に参加した。後にR.E.M.の主要な制作スタッフとなり、『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』ではエンジニア、『UP』以降は共同プロデューサーを務めた[131]
  18. ↑ コバーンはR.E.M.が成功と名声に対処する姿勢を称賛し、彼らを「聖人」と呼んでいた。バックとはロサンゼルスで会食し、スタイプはコバーンと妻コートニー・ラヴ、娘フランシス・ビーン・コバーンをアセンズの自宅へ招くなど、両者は交流を深めていた。 スタイプとコバーンは共同で作曲・録音する計画も話し合い、薬物依存と自殺願望を心配したR.E.M.は、コバーンをシアトルから離すためアトランタ行きの航空券を送ったが、使用されることはなかった。 コバーンの死後、現場のCDプレーヤーから『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』が発見された。スタイプは、コバーンを救えなかった無力感と、苦しみを分かち合ってほしかったという思いを「レット・ミー・イン」に託した[133][134]。
  19. ↑ ベリーの元妻マリによれば、ベリーは1995年に脳動脈瘤で倒れる以前から、バンド活動から退く可能性について話していた。手術は人生の優先順位を再考する決定的な契機となったが、脱退の原因は健康問題だけではなく、長期のツアー、絶え間ない移動、バンドを取り巻く巨大な組織への疲労が蓄積した結果でもあった[160]。
  20. ↑ リーはダブリン出身で、12歳のころに幼なじみのパット・マッカーシーとバンドを結成し、ザ・キュアーやカーズの楽曲を演奏していた。その後、パンク・バンドのコンパルジョンでギタリストを務め、バンド解散後はエレクトロニック・ダンス・ミュージックの制作やDJ活動へ進出した。1999年にレディオヘッドの「エアバッグ」の歌詞から取った「ジャックナイフ」を名乗り、ソロ・アルバムを発表した。 プロデューサーとしてスノウ・パトロール、ブロック・パーティー、エディターズなどを手がけ、U2の『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』にも参加した。R.E.M.には、リーと仕事をしたボノとジ・エッジ、および彼と仕事をしたことのなかったクリス・マーティンが推薦した。 リー自身も、1984年のR.E.M.初のダブリン公演を観た姉の影響や、1989年にハマースミス・オデオンで公演を観たことから初期R.E.M.のファンだったが、『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』以降は自身の活動に専念していた。 2007年1月、オックスフォードでバック、ミルズ、スタイプ、バーティス・ダウンズ、トム・ヨークとの夕食に招かれ、R.E.M.の新作に何を求めるかと尋ねられると、「本能に訴えかける、スリリングな作品にしたい」と答えた。その後、アセンズでのデモ制作に参加し、正式にプロデューサーへ起用された[203]。
  21. ↑ この公演の録音は、2009年にライブ・アルバム『ライヴ・アット・ジ・オリンピア』として発売された。
  22. ↑ 同スタジオはデヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、U2の『アクトン・ベイビー』などが制作された場所であり、リーもスノウ・パトロールの録音に使用していた。
  23. ↑ バンドは解散の決定を1年以上公表しなかったが、『コラプス・イントゥ・ナウ』には複数の示唆を残していた。ジャケットは、R.E.M.のアルバムとして初めて当時のメンバー全員を判別できる形で写し、スタイプは別れを告げるように手を振っていた。「オール・ザ・ベスト」や「ディスカヴァラー」にも、もう一度力を示したうえで過去を受け入れ、先へ進むという言葉が置かれた。メンバーは最終作であることを販売上の宣伝には利用せず、告別ツアーも行わなかった[215]。

出典

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外部リンク


REM

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 13:49 UTC 版)

REM、rem、と呼称される名称または略称。

名称

  • REM - Mr.Childrenのシングル。
  • REM - カナダ・アメリカ・フランス合作の映画。
  • REM - BASICなどにおける「コメント」時の命令のひとつ。
  • REM - 神はサイコロを振らないのアルバム「ラムダに対する見解」収録曲。
  • R.E.M. - アメリカのロックバンド。

略称

関連項目


REM

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 10:05 UTC 版)

「COMMAND.COM」の記事における「REM」の解説

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※この「REM」の解説は、「COMMAND.COM」の解説の一部です。
「REM」を含む「COMMAND.COM」の記事については、「COMMAND.COM」の概要を参照ください。

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