K-1時代
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ボクシングに自分の全てを捧げていたため、引退後生きがいを失ってしまう(「燃え尽き症候群」)。同時期に母親が死去したこともあって、しばらくの間酒浸りの自堕落な生活を送った。 しかし、秋山成勲に打撃の指導を行ったことがきっかけとなり、2005年3月からキックの練習を開始し、かねてから興味を持っていたK-1に転向することを決意。9月2日、K-1転向が発表され、酒太りした83kgの体から、およそ1か月でK-1 MAX規定体重である70kgにまで減量した。 2005年10月12日、K-1 WORLD MAXでアルバート・クラウスと対戦。試合では、ボクシングシューズを履いて試合に臨み(K-1公式ルールではシューズ着用は任意だが、着用したら蹴り技の使用が禁止される)、序盤は持ち前のパンチで相手を追い込む場面も見られたが、ローキックを何発も当てられKO負けとなった。 2005年11月、西日本ボクシング協会は「K-1や総合格闘技等に出場するボクサーは、引退後のセコンド、トレーナーライセンス、ジム設立の許可を一切剥奪する」との宣言を発表し、ボクシング界から半ば追放の身となってしまう。 2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で魔裟斗と対戦。急なオファーだったせいもあってか(計量までに契約体重に落とせなかった)、いいところが出ずにローキックでKO負けを喫した。 2006年2月4日、K-1 WORLD MAX 2006 〜日本代表決定トーナメント〜に出場し、総合格闘家の上山龍紀と対戦するも、上山のトリッキーな戦法に翻弄され、判定負けを喫した。 2006年5月26日、シュートボクシング興行で緒形健一と対戦予定であったが、拳の負傷により欠場となった。
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K-1時代
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「崔龍洙 (ボクサー)」の記事における「K-1時代」の解説
ボクシング引退後は母国でジムを開設し、後進の指導にあたっていたが、2006年、K-1への挑戦を表明。 2006年9月16日、K-1韓国大会に出場。ドリトン・ラマに1RKO勝ち。 2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で魔裟斗と対戦する予定であったが、練習中に脚を負傷したため出場を断念。 2007年2月18日、K-1韓国大会で、新空手出身の那須儀治と対戦し、判定勝ち。 2007年7月21日、K-1韓国大会でボクシング元日本ミドル級王者でもある鈴木悟にレフェリーストップでTKO勝ち。 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で魔裟斗と対戦。3回TKOに敗れ、K-1初黒星。
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K-1時代
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1997年9月7日、K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦のGP1回戦でアーネスト・ホーストにKO負け。 1998年9月27日、K-1 GRAND PRIX '98 開幕戦のGP1回戦でレイ・セフォーに判定負け。 1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦のGP1回戦でサム・グレコに判定負け。 2000年10月9日、K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAのGP予選トーナメント1回戦でアンドリュー・トムソンに右ローキックでKO勝ち。しかし右拳骨折のためマイク・ベルナルドとの準決勝を棄権した。 2000年12月10日、ジェロム・レ・バンナの欠場により、決勝トーナメントに急遽参戦。GP準々決勝でフランシスコ・フィリォと対戦し、判定負けを喫した。 2001年6月24日、K-1 SURVIVAL 2001 〜K-1 JAPAN GP 開幕戦〜のスーパーファイトでジェロム・レ・バンナと対戦。中盤までは互角の展開で進み、4Rにハイキックでダウンしたがすぐに立ち上がりバンナを攻め立て4・5Rは押し気味に試合を進めた。フラッシュダウンが響き判定負けとなったが、後半はレコが押していたため高い評価を得ることとなった。 2001年8月11日、K-1 WORLD GP 2001 in LAS VEGASのGP予選トーナメントにて、ジェフ・ルーファスを2RKO、セルゲイ・イバノビッチを2RKO、ピーター・アーツを3RKOと、3試合連続KO勝ちで優勝。特に決勝戦ではピーター・アーツから2度ダウンを奪い、最後は右ストレート一発でノックアウト勝ちを収めて優勝。K-1 WGP 2001のベスト8進出を決めると共にトップクラスであることを証明した。 2001年12月8日、K-1 WORLD GP 2001 FINALのGP準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦。2Rにレコがローキックを打った際にホーストのパンチがヒットしたため、レコが後ろに倒れすぐ何事も無く立つも審判にダウンと判断される。試合は最後まで互角の展開となったが、ダウンのポイント差により判定負けを喫した。 2001年12月8日、K-1 WORLD GP 2001 FINALにて、負傷したアーネスト・ホーストの代わりにGP準決勝でマーク・ハントと対戦。1R早々にダウンを奪われると、2Rにも再度ダウンを奪われ、判定負けを喫した。 2002年8月17日、K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGASのスーパーファイトでレミー・ボンヤスキーと対戦し、レミーを完封し判定勝利を収めた。 2002年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦のGP1回戦でアレクセイ・イグナショフと対戦。判定勝利を収めGP FINALへと進出した。 2002年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 FINALのGP準々決勝でマーク・ハントと対戦。3Rにハントの左フックを受けてKOで敗れた。 2003年5月30日、K-1 WORLD GP 2003 in BASELにて、マイク・ベルナルドと対戦し、3R判定勝ち。 2003年10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦のGP1回戦ではフランシスコ・フィリォに3R判定勝ち。 この結果、K-1 WORLD GP 2003の決勝大会では決勝トーナメント出場メンバーがレコが勝利した選手ばかりとなっており、調子も含めてファンやマスコミにK-1 WGP 2003の優勝候補最有力と言われることとなった。しかし、開幕戦でファイト契約の切れたレコは、K-1の主催者側(FEG)との契約が合意に至らず、決勝大会の出場メンバーから外れる事となった。K-1側は「(レコ欠場については)K-1側としては興行成立のため、毅然とした態度をとった」と声明を出したが、一方でミルコ・クロコップの公式サイトのNEWS欄では「レコがK-1GP決勝戦から外された後、K-1の主催者たちは彼に謝罪した」という文章が掲載されたりするなど、この件はK-1側と他の証言に食い違いが見られた。 2003年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2003に出場し、村上和成とキックボクシングルールで対戦し、右ハイキックで1RKO勝ち。試合後会見では「(本来ならK-1 WORLD GP 2003 決勝大会に予定通り出場し、優勝して)K-1王者としてこの試合をするつもりだった。」と語った。 2003年のK-1 WGP 2003 決勝大会直前に起きた、K-1を主催するFEGとの契約トラブルにより、K-1を離脱。
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