K-1参戦後とは? わかりやすく解説

K-1参戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 02:04 UTC 版)

佐藤嘉洋」の記事における「K-1参戦後」の解説

2005年5月4日K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント開幕戦で、「日本人最後の大物」という触込みでK-1に初参戦。ウィリアム・ディンダーオランダ)と対戦しローキック連打繰り出すなどして判定勝ち。 2005年10月5日K-1 WORLD MAX 2005 世界王者対抗戦ガオグライ・ゲーンノラシンタイ)と対戦執拗なまでのローキック膝蹴り連打判定勝利勝利後、歓喜余り号泣した2006年2月4日K-1 WORLD MAX 2006 日本代表決定トーナメント出場し1回戦新田明臣準決勝上山龍紀決勝TATSUJI破り優勝2006年4月5日K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント開幕戦出場しトーナメント1回戦マイク・ザンビディスギリシャ)に判定勝ち。 2006年6月30日K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦出場トーナメント準々決勝ブアカーオ・ポー.プラムックタイ)にパンチ勝負挑んだのが裏目に出て2RKO負け2007年2月5日K-1 WORLD MAX 2007 日本代表決定トーナメント出場1回戦白須康仁準決勝尾崎圭司共に相手ペース握らせ判定勝ち。決勝では前年同じくTATSUJI対戦顔面への跳び膝蹴りKO勝ちし、2連覇達成佐藤自身、K-1では初のKO勝利優勝花を添えた2007年6月28日K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント開幕戦トーナメント1回戦デニス・シュナイドミラードイツ)に判定勝ち。 2007年10月3日K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦トーナメント準々決勝アルバート・クラウスオランダ)と再戦後半真っ向から打ち合い展開するが、判定負け。しかし、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「今までで一番い試合だった。」と讃えた。 2008年2月2日K-1 WORLD MAX 2008 〜日本代表決定トーナメント〜小比類巻貴之開幕戦出場賭けて対戦予定であったが、小比類巻靭帯損傷により欠場代わりにブアカーオ・ポー.プラムックとのワンマッチ変更された。試合延長まで縺れ込み、左フックブアカーオぐらつかせる場面もあったが、1-2判定負け2008年4月9日K-1 WORLD MAX 2008トーナメント1回戦ムラット・ディレッキーベルギー)と対戦し判定勝ち。 2008年7月7日K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝ブアカーオ・ポー.プラムック対戦3R膝蹴りを効かせ、右ストレートKO勝ち。3度目対戦ブアカーオ越え果たした2008年10月1日K-1 WORLD MAX 2008 FINALトーナメント準決勝で、以前から対戦熱望していた魔裟斗対戦3Rに左フックダウンを奪うも、判定負け当時は「優勢選手に必ず10ポイント付ける」というルールがあったにも関わらず優勢判断され佐藤嘉洋に9ポイントしか付かなかった為、これが不信混乱招いて判定終了後観客席からリング上に向かって物が投げ込むファンもいた。 試合数日後インタビューでは、「KO倒さないといけない、ということですね。息の根を止めるくらいに」「ルール把握していなかった自分が悪い」としながらも、採点には納得出来ないとも述べた2008年12月31日Dynamite!!初出場し、アルトゥール・キシェンコウクライナ)と対戦0-2判定負け2009年4月21日K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦ドラゴアルメニア)と対戦延長R判定負け喫し、FINAL8進出はならなかった。 2009年7月13日K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8のリザーブファイトでユーリ・メス対戦互角の展開となり延長R2-1で判定勝ちを収めた2009年10月26日K-1 WORLD MAX 2009 FINALのリザーブファイトで城戸康裕対戦し2R互いにダウン一度ずつ奪い、右フック2度目ダウン奪ってKO勝ち。 2010年3月27日K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜でダニロ・ザノリニと対戦し、右膝蹴りKO勝ち。当初ジョルジオ・ペトロシアン対戦予定であったが、ペトロシアンの右拳負傷により対戦相手変更となった2010年5月29日IT'S SHOWTIMEでパジョンスック・ルークプラバーツと対戦し0-5判定負け喫した2010年7月5日K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg World Championship Tournament FINAL16〜で山本優弥5年ぶりに再戦し、2-0判定勝ち。後日ジャッジ集計ミス発覚し3-0判定勝ちへの訂正発表された。 2010年8月14日、Krush.9で名城裕司対戦し3-0判定勝ちを収めた当初山本優弥出場予定であったが、急性虫垂炎および汎発性腹膜炎による欠場受けて出場となった2010年11月8日K-1 WORLD MAX 2010 FINALトーナメント準々決勝ミハウ・グロガフスキー準決勝ドラゴそれぞれ判定破り自身初の決勝進出ジョルジオ・ペトロシアン判定負け準優勝終わった2011年6月25日K-1 WORLD MAX 2011 -63kg Japan Tournament FINAL3度目対戦となるアルバート・クラウス3R終盤ダウン寸前まで追い込み2-0判定勝ちを収めた2011年7月2日名古屋市瑞穂区にキックボクシングフィットネスジム「名古屋JKフィットネス」をオープン2012年2月17日、Krush.16で、ファディ・メルザ保持するISKAオリエンタル世界ライトミドル級王座挑戦王者終始圧倒しジャッジ3者とも50-45の判定王座奪取した2013年2月22日SHOOT BOXING 2013 act.1でヘンリー・オプスタルと対戦し判定勝ち。 2013年3月、『悩める男子捧げる 1001のローキック』を出版2013年10月6日MAX MUAYTHAI WORLD CHAMPION 2013 JAPANブアカーオ・ポー.プラムック通算4度目対戦し判定負けブアカーオとの対戦戦績を1勝3敗とした。 2015年1月18日K-1 WORLD GP 2015 -60kg初代王座決定トーナメントスーパーファイトにてサニー・ダールベック対戦延長RKO負け喫した2015年5月4日、Krush.54にてジョーダン・ピケオー対戦。2RKO負け喫した2015年5月8日同年7月4日開催されるK−1 WORLD GP −70kg初代王座決定トーナメント出場し1回戦でアルメン・ペトロシアンと再戦予定であったが、出場辞退発表した2015年7月21日記者会見現役引退発表した2017年3月に『日本キックボクシング選手協会』を設立2018年3月から一般財団法人化して同協会代表理事務めている。

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