2011年ペルー大統領選挙とは? わかりやすく解説

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2011年ペルー大統領選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:47 UTC 版)

ケイコ・フジモリ」の記事における「2011年ペルー大統領選挙」の解説

こうした情勢の中2011年4月10日実施され大統領選挙で、ケイコ・フジモリ344票あまりを獲得して2位となったペルーの大統領選挙では過半数獲得する候補者がいない場合上位2名による決選投票が行われる。そのため得票数で1位となった左派で元陸軍中佐オジャンタ・ウマラとの決選投票進んだまた、同日行われた総選挙ケイコ・フジモリ率いる「フエルサ2011」は共和国議会会派として第2党躍進した。 2011年 ペルー共和国大統領選挙第一回投票結果順位候補者名所政党政党連合得票数得票率)1オジャンタ・ウマラ Gana Perú 4,643,064(31.699%) 2ケイコ・フジモリ Fuerza 2011 3,449,595(23.551%) 3ペドロ・パブロ・クチンスキー Alianza por el Gran Cambio 2,711,450(18.512%) 4アレハンドロ・トレド Perú Posible 2,289,561(15.631%) 5ルイス・カスタニェーダ Alianza Solidaridad Nacional 1,440,143(9.832%) 決選投票第一回選挙3位以下になった主要候補の票の取り込み焦点となったウマラ2006年大統領選挙では第一回投票で1位になりながら、決選投票敗れている。ウマラ当時からベネズエラの大統領ウゴ・チャベス盟友関係にあり、天然資源国有化政治腐敗一掃教育無料化憲法改正メディア規制などの急進左派的な政策強く打ち出すことで貧困層の票の取り込み成功していた。そのためウマラ危機感持った対抗陣営決選投票ではそろって反対に回り結果第一回投票2位だったアラン・ガルシア勝って大統領になった経緯がある。しかし2011年の大統領選挙ではウマラチャベス盟友関係は保たれているものの、懸念されていた天然資源国有化などの資源ナショナリズム的な主張は口にしなくなり、鉱山企業への課税強化や、国内産出される天然ガス国内価格引き下げなどの穏健な政策へとシフトしている。しかし、ウマラ大統領になれば好調な経済推進してきた経済政策転換されペルーベネズエラ化する」との警戒経済界富裕層中心に根強く存在している。 2002年以降ペルー豊富な埋蔵資源とその値上がり背景毎年4%以上の経済成長(2005年以降は6%超)を維持しており新興成長国の仲間入り果たしつつある。この成長伴って貧困問題徐々に改善されつつあるものの、富裕層貧困層所得格差急速に拡大している。また、それに歩調合わせるように都市部農村部でも経済的な格差拡大。特に所得格差対する不満が貧困層増大しており、これがウマラフジモリ躍進する要因のひとつとなった。その反対に首都リマなど都市部富裕層中間層有権者からすれば決選投票残ったふたりは最も拒否感が強い存在とも言われ選挙戦終盤になっても誰に投票する決めていない有権者全体の2割に達するとの推計出ていた。 こうした状況の中、第一回投票で4位となったトレド大統領は、古くからアルベルト・フジモリ政敵であったこともあり、早々にウマラ支持表明した3位元首相クチンスキーと、5位で元リマ市長のカスタニェーダは中道右派で、政策的に左派ウマラより自由主義経済市場開放路線継承訴えフジモリに近い。この2候補フジモリ支持に回るための課題として言及した問題が、父アルベルト恩赦することの是非だった。こうしてフジモリは父アルベルト支持する層を納得させながら、恩赦によってアルベルト政界に復帰することを警戒している保守層や中間層支持を得なければならない難し立場追い込まれた。結局第一回投票近づく3月上旬頃から父の恩赦についてほとんど言及しなくなったフジモリは、第一回投票経て決選投票前にした4月18日にはついに父の政治手法強権的であったことを認め、「神に誓って父の赦免はしない」と明言する至った5月上旬インタビューでも同様の考え示している。しかし恩赦しないと表明したあとも「父は無実だと信じていますが、法には従います」として、父は無実であるとの考え自体変えていない。また、地元メディアによると、フジモリ自身当選後憲法裁判所が「体制」の意を酌んで、父アルベルトを裁いた最高裁特別刑事法廷に裁判見直し命じその上で父の無罪勝ち取るというシナリオ描いていたとされるアルベルト恩赦否定する発言はじめた直後から、フジモリ支持率ウマラ急追しはじめた。第一回投票で8ポイントあった差は4月末の世論調査ではほぼ拮抗し、選挙戦中盤5月上旬にはついにウマラ抜いて、ほとんどの世論調査逆転した。しかしその後ウマラ巻き返し終盤までほぼ互角の状態が続いた接戦続いた選挙戦激しさ増しウマラ支持が強い南部の州では、遊説訪れたフジモリ対し住民が石や卵を投げ付ける騒ぎまで起きた。またAP通信選挙戦終盤5月25日に、フジモリの夫マーク・ビラネラの父が、1992年及び2000年あわせて1万1000ドル脱税したとして、罰金5000ドルなどの判決受けていたと報じた。この報道に関してフジモリ事実関係認めている。 これまでどちらの候補支持する態度保留していたクチンスキーとカスタニェーダは、選挙戦終盤5月下旬フジモリ投票する相次いで表明した決選投票6月5日行われウマラが7937704票(得票率51.449 %)を獲得フジモリの749647票(得票率48.551%)を僅差上回りウマラ発した勝利宣言に対して選挙結果真摯に受けいれるとともにウマラ氏に心から祝い申し上げる」と声明した。 なお、白票無効票合わせた数は103票あまりで、全投票数の6.304%だった。。

※この「2011年ペルー大統領選挙」の解説は、「ケイコ・フジモリ」の解説の一部です。
「2011年ペルー大統領選挙」を含む「ケイコ・フジモリ」の記事については、「ケイコ・フジモリ」の概要を参照ください。

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