2008年以降:オバマ政権
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「2008年以降:オバマ政権」の解説
2008年の民主党大統領候補予備選挙では、イリノイ州選出のバラク・オバマ上院議員とニューヨーク州選出のヒラリー・クリントン上院議員の2人が接戦を繰り広げた。2人は片やアフリカ系アメリカ人、片や女性として、大政党の中ではかつてない支持を獲得していたが、2008年民主党全国大会(英語版)を目前にして、オバマが指名獲得をほぼ確実にした。一方共和党は、ディック・チェイニー副大統領が不出馬を表明したこともあり、早い段階でアリゾナ州選出のジョン・マケイン上院議員が候補としての地位を固めた。 2008年の大統領選挙戦を通じて、世論調査ではオバマとマケインが接戦を演じていた。しかしながら、2008年9月の金融危機の影響を受け、オバマがじりじりとマケインを引き離していった。結局、11月の選挙人選挙ではオバマが大差でマケインを破った。民主党はまた、2006年の中間選挙に引き続き、上下両院でさらに議席数を伸ばした。 2009年1月のオバマ大統領の就任式は、約200万人というかつてない大勢の熱狂の中で執り行われた。しかし、就任式に溢れた楽観的な盛り上がりとは裏腹に、政権はすぐに経済刺激策について、共和党の知事たちやティーパーティー運動の保守主義者、リバタリアンからの攻撃を受けることになった。 オバマと民主党が支配する議会は医療制度改革を推し進め、時間はかかったものの、後に法制化に成功した。しかし、約束された景気の回復が一向に実現されないのを尻目に、共和党は2010年の議会選挙での盛り返しに備えていた。この選挙で民主党は下院で63議席を失って多数党の座から転落し、上院でも多数党の地位は維持したものの議席を減らした。 波乱の選挙の余波を受け、両党の敵対的な関係が継続した。2011年1月、民主党の女性議員ガブリエル・ギフォーズがアリゾナ州ツーソンで暗殺未遂にあい、議員は一命を取り留めたものの、6人が死亡するという事件が発生した。この惨劇に際し、ティー・パーティー運動が引き起こした不穏な政治的潮流が原因だという非難も生じたが、オバマは銃撃事件の原因となった政治的要因について冷静に互いを尊重しながら議論することを双方に求めた。 第112議会での対立は継続し、予算案をめぐって共和党が歳出削減と税額据え置きを求めたのに対し、民主党は断固として応じず、2011年4月には政府機能の停止が現実に迫った ばかりでなく、アメリカが債務不履行に陥るのではないかという懸念まで生じた。経済および財政の不振は州レベルでも問題となり、民主党の重要な支持母体である公務員労働組合(英語版)は、人件費抑制のために団体交渉権を抑制しようとする共和党との戦いを繰り広げた。公務員による抗議活動が継続し、ウィスコンシン州やオハイオ州では同情的な民主党議員が抗議のために議場を退席した。 外交面では、ヨーロッパと中東におけるアメリカのイメージはわずかに改善したが、2009年イラン選挙デモ(英語版)や2011年のエジプト革命等の危機に対する大統領の対応を、国内の保守派は「消極的」と批判した。他方、リベラルな民主党寄りの活動家たちは、アフガニスタンへの増兵や、グアンタナモ湾におけるテロ容疑者に対する軍法会議の再開、リビア内戦時の飛行禁止空域設定といったオバマの決断に反対した。ただし、イラクからの戦闘部隊の撤退という公約の実行に関しては、反戦活動家達の要求が聞き届けられた。 2012年の大統領選挙は非常に高額な選挙費用がつぎ込まれ、特におよそ10の接戦州では大量の相手陣営を中傷するテレビ広告が流された。鈍い景気回復と高い失業率にもかかわらず、オバマの選挙陣営は若者や黒人、ヒスパニック、そして女性の支持者の動員に成功し、2008年の選挙で獲得した州のうち、失ったのはインディアナ州とノースカロライナ州の2つに留まった。この結果により、1988年以降の大統領選挙においては、2004年を除いて、民主党が最も多くの票を獲得する傾向が続いている。一方、議会選挙ではほとんど変化はなく、選挙直後から、2013年1月1日に予定された「財政の崖」についての厳しい交渉が始まった。
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