リビア内戦
別名:リビア内乱、リビア騒乱、2011年リビア内戦、2011年リビア騒乱
英語:2011 Libyan civil war
北アフリカのリビアで長期独裁政権を維持してきたカダフィ政権に対して反対勢力が蜂起し、発生した内乱。
2010年から2011年にかけて、チュニジアやエジプトで期独裁政権が打倒されたことなどを背景に、カダフィ大佐による独裁政権下にあるリビアでも、政権打倒の機運が高まっていた。2011年2月に反カダフィ派による反政府デモが起こり、次第に武力衝突に発展していった。
2011年9月6日現在、まだ抗争は続いているが、すでにリビアの首都トリポリは反カダフィ勢力によって制圧され、政治犯・思想犯を収容していたリビア最大の刑務所施設「アブ・サリーム刑務所」も開放されるなど、実質的にカダフィ政権は崩壊したと見なされている。
カダフィ大佐の行方は、9月6日現在、分っていない。リビア西部のオアシス都市「バニワリード」に潜伏しているとも、あるいは隣国ニジェールへ亡命したとも言われている。
リビア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/11 03:46 UTC 版)
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- 2011年リビア内戦(第一次リビア内戦)
- 2014年リビア内戦(第二次リビア内戦)
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リビア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 22:16 UTC 版)
「アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィー」の記事における「リビア内戦」の解説
2011年リビア内戦では部隊を指揮しブレガの反カダフィ勢力と戦うが、ブレガの奪還に失敗している。トリポリ陥落後はスルトに撤退し防衛の指揮を執る(スルトの戦い(英語版))が、10月12日にリビア国民評議会の部隊に拘束された。ベンガジに移送されたとの報道もあったが、10月20日、スルト市内で拘束された父と共に兵士から罵倒される映像が記録されたのを最後に消息を絶ち、死亡が確認された。アル=アラビーヤが首に銃弾を受けたムアタシムの遺体写真を公開しており、射殺されたと見られている。 遺体は10月22日から24日までシルトにある市場の冷蔵室で父の遺体と共に市民に公開された後、25日に極秘裏に埋葬された。
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リビア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:34 UTC 版)
2011年、アラブの春を受けて反カダフィ勢力によって結成されたリビア国民評議会は反乱を起こし、2011年リビア内戦が勃発。民主化の弾圧を試みたムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)は国際的な批判に晒され、日本は安全保障理事会において採択されたリビアへの即時停戦を訴える国際連合安全保障理事会決議1970に従って、カダフィ及びその関係者に対し資産凍結ならびに武器の輸入の禁止といった経済制裁を実施、2度にわたってその対象者を拡大した。また、日本政府は幾度となく即時停戦を訴えてきた。駐日リビア大使館周辺では、カダフィ体制に反対する在日リビア人によるデモ行進も展開された。その後、リビア国民評議会の拠点となっているベンガジに外務省職員四名を調査員として派遣しリビア国民評議会への支持の立場を明確にすると、リビア国民評議会がトリポリを掌握して事実上カダフィ政権崩壊後、日本政府はこのリビアの再出発を歓迎している。 リビア国民評議会が正式政府として承認された後、日本政府はリビア・フレンズ会合に出席してリビア国民評議会のリビア代表権承認を後押しした。その後、経済制裁を段階的に解除し、人道に基づいた支援も実施。 しかし2014年には、リビア国民評議会から権限を委譲された世俗的なリビア国民代議院に対抗して、イスラーム過激派が勢力を増し内戦が勃発(2014年リビア内戦)。首都トリポリでも戦闘が行われ、イスラム系勢力によって結成された新国民議会が首都を制圧。リビア国民代議院は東部の港湾都市トブルクに退去して、二つの政府が並立する状態になった。また、ISILもリビアに進出し限定的な支配を固め、日本はこれを強く非難し、領土が解放された際には祝意を表明している。 2015年、リビア国民代議院と新国民議会の協議により、ファイズ・サラージを新首相とした統一政権を樹立する事で合意。しかしそれに反対してエジプトが支援するリビア国民軍やトルコが支援する国民救済政府が独立した勢力を築き、内戦が継続。日本政府は上記二勢力の武力行使を非難している。また、日本およそ7年ぶりに資産凍結などの経済制裁の対象を追加した。 このように日本はリビア情勢を注視しており、また一貫して民主的勢力(リビア国民評議会、リビア国民代議院、国民統一政府)を支持し続けている。
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リビア内戦
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「ハーンニーバール・ムアンマル・アル=カッザーフィー」の記事における「リビア内戦」の解説
2011年リビア内戦では、反体制派によりトリポリが制圧されると、早々に、8月29日には陸路を通じて妻アリーネ及び他のカダフィ一族と共に隣国のアルジェリアに脱出した 。残されたパーソナルコンピュータには、ハーンニーバールがプライベートジェット機を使い、リゾート地で豪遊していたことを示す画像などが残されており、これらは内外に報道された。 2012年10月、母サフィーア・ファルカーシュ(英語版)、兄ムハンマド・アル=カッザーフィー(英語版)、妹アーイシャ・アル=カッザーフィー(英語版)と共にアルジェリアの潜伏先を去り、オマーンに入国し亡命を申請した。2013年3月に「政治活動をしない」という条件を受け入れたため、オマーン政府により亡命が受理された。 反体制派は、ハーンニーバール及び妻アリーネの娘及び息子の世話をしていたエチオピア人の乳母が、トリポリ西部の海辺の豪華な別荘の一室に遺棄されているのを発見した。乳母は、泣いているアリーネの娘を殴るようアリーネが指示したのを拒否したところ、アリーネは激怒し、乳母を浴室に連れて行き、縛り上げ、口にテープを貼り、頭から熱湯をかけ、その後3日間、乳母を眠らせず、水も食物も与えなかったと主張している。他の匿名の使用人も、乳母の言い分は正しいと証言し、自分もまた日常的に殴られたりナイフで切りつけられたりされていたと主張している。
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