2008年以降の政治危機
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「タイの歴史 (1973年 - )」の記事における「2008年以降の政治危機」の解説
2006年のクーデター後のタイの政治には、タクシン・チナワット前首相の支持派と反対派という2つの戦いを続ける派閥があった。反タクシン派は民主市民連合 (PAD) を形成し、立憲君主国のシンボルとして王室を守る意味を含んだ黄シャツ隊として知られ、王室に「不忠実である」として非難し親タクシン派に対する王室の影響力を削ぐことを目的とした。2006年のクーデターに反対する活動家が結合した親タクシン派は赤シャツ隊として知られる反独裁民主同盟 (UDD) を形成し、現行憲法の停止、タクシンと仲間への恩赦を主張した。 2008年5月25日、PADはサマック首相の辞職を要求して民主記念塔でデモンストレーションを始めた。その首相は、タクシン元首相が指名した選任だった。デモ参加者は与党の憲法修正プランにも反対していた。8月26日、デモ参加者は首相府を含む政府庁舎を占領した。サマックは、反対者の要求する辞職を拒否したが、武力行使はしないことを選んだ。8月29日から、デモ参加者は航空と鉄道のインフラストラクチャーを混乱させた。9月2日、衝突により1人が死亡したことにより、サマックは当日バンコクで非常事態を宣言し、PADによる集会とメディアの使用を禁止した。9月9日、サマックが憲法裁判所により有罪とされ、9月17日に後任としてタクシンの義兄弟ソムチャーイ・ウォンサワットが就任した。11月25日、PADはドンムアン空港、続いてスワンナプーム国際空港を封鎖し、何千人もの旅行者が足留めされた。12月2日、憲法裁判所は与党であった国民の力党の解散と、ソムチャーイを含む指導者の5年間の政治活動の禁止を命じた。これを受けて12月15日、反タクシン派の民主党党首アピシット・ウェーチャチーワが首相に選任された。 2009年4月11日、UDDはパッタヤーで東アジアサミットに乱入して中止させ、アピシット首相はバンコクと隣接する5県に非常事態を宣言した。2010年3月 - 4月、UDDと支援者はバンコクの中心市街地を占領し、衝突により18人の死者と、800人以上の負傷者をもたらした。5月13日 - 5月16日、包囲する警察や軍と抗議キャンプの衝突は徐々に拡大した。衝突により外国人ジャーナリストや医療関係者を含む少なくとも35人が死亡し、250以上が負傷した。5月19日、陸軍部隊は赤シャツキャンプを制圧し12人が死亡した。穏健派とされる赤シャツ指導者は投降して逮捕されたが、一部は逃亡した。それに続く暴動により、セントラルワールドを含む多くのショッピングセンターやビルが放火され破壊された。
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