1992–2004
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「ローリング・ストーンズ」の記事における「1992–2004」の解説
スティール・ホイールズ / アーバン・ジャングルツアーの成功後に、バンドは休息を取った。チャーリー・ワッツは2枚のジャズアルバムをリリースした。ロニー・ウッドは11年ぶりに5枚目のソロ・アルバム『スライド・オン・ディス』をリリースした。キース・リチャーズは1992年後半に2枚目のソロ・アルバム『メイン・オフェンダー〜主犯〜』(イギリス45位; アメリカ99位)をリリースして、スペインとアルゼンチンでの大規模コンサートを含む小ツアーを行った。ミック・ジャガーは3枚目のソロ・アルバム『ワンダーリング・スピリット』(イギリス12位; アメリカ11位)をリリースし、セールスの成功と高評価を得た。同作は世界中で200万枚以上のセールスを記録し、アメリカではゴールドアルバムを獲得した。 1993年1月のワイマン脱退後、ストーンズはヴァージン・レコードと契約し、ライブアルバム3枚を除く『スティッキー・フィンガーズ』から『スティール・ホィールズ』までの旧譜をリマスターの上再発、コンピレーション『ジャンプ・バック』(イギリス16位; アメリカ30位)をリリースした。1993年までにストーンズは次のスタジオアルバムの製作に入った。マイルス・デイヴィスおよびスティングのサイドマンを務めたダリル・ジョーンズがワイマンの代わりとしてチャーリー・ワッツによって選ばれ、『ヴードゥー・ラウンジ』のレコーディングに参加した。同アルバムはイギリスで1位、アメリカで2位を獲得し、高評価および高売り上げを達成、アメリカでダブル・プラチナを獲得した。ワイマンが脱退した反動からか、ベースを中心とした低音重視の音作りをしており、曲調も新人バンドに戻ったような瑞々しさのある曲が多く、評論家はアルバムの「トラディショナリスト」な音に注目した。これは新たなプロデューサーのドン・ウォズに依るところが大きかった。同作は1995年のグラミー賞ベストロックアルバムを獲得した。 アルバムの発売に伴い、1994年から95年にかけてヴードゥー・ラウンジ・ツアーが実施された。様々なコンサートおよびリハーサルからの録音(多くはアコースティックナンバー)が編集され、『ストリップド』(イギリス9位; アメリカ9位)がリリースされた。同作ではボブ・ディランのカヴァー「ライク・ア・ローリング・ストーン」がフィーチャーされ、それまでライブではあまり演奏されなかった「シャイン・ア・ライト」、「スウィート・バージニア」、「クモとハエ」といった曲が収められた。1994年9月8日、ストーンズはニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールでMTVビデオ・ミュージック・アワーズに出演、「ラヴ・イズ・ストロング」と「スタート・ミー・アップ」を演奏した。バンドは授賞式でライフタイム・アーカイヴメント賞を受賞した。 ストーンズはインターネット上でコンサートを中継放送した最初のメジャーアーティストであった。1994年11月18日に20分間のビデオがMboneを使用して、1秒間当たり10フレームで放送された。放送はThinking Picturesが技術を担当し、サン・マイクロシステムズが出資して行われた。この放送はストリーミング・ビデオの最初のデモンストレーションの1つであり、本当のネット配信ではなかったが、多くの技術が紹介された。 ストーンズの90年代を締めくくった『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(イギリス6位; アメリカ3位)は1997年にリリースされ、賛否両論の評価を得た。シングルカットされた「エニバディ・シーン・マイ・ベイビー? 」 のプロモーションビデオにはアンジェリーナ・ジョリーがゲスト出演し、MTVとVH1で何度も放送された。また、同年11月にリリースされたB.B.キングのアルバム『デューシズ・ワイルド』に収録された「ペイング・ザ・コスト・トゥ・ビー・ザ・ボス」のレコーディングには、ストーンズのメンバー全4人とサポート・メンバーのダリル・ジョーンズが参加した。 アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』の売り上げは前作とほぼ同様(アメリカで約120万枚)となり、続いて行われたブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーはヨーロッパを横断、北米を回ってその他の地域でも行われ、バンドが未だ強力なライブパフォーマンスを行えることを証明した。再びライブアルバム『ノー・セキュリティ』(イギリス67位; アメリカ34位)が本ツアーから編集されたが、収録曲は「リヴ・ウィズ・ミー」と「ザ・ラスト・タイム」以外はライブとしては未発表の曲ばかりであった。1999年にはアメリカでノー・セキュリティ・ツアーを開始し、ヨーロッパではブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーを継続した。ノー・セキュリティ・ツアーは近年の花火や巨大ステージのツアーとは対照的に簡素なステージで行われた。 ミック・ジャガーは2001年後半に4枚目のソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』(イギリス44位; アメリカ39位)をリリースしたが、賛否両論の批評を受けた。アメリカ同時多発テロ事件の一ヶ月後、ミックとキースは「ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ(英語版)」に出演、バックバンドと共に「地の塩」と「ミス・ユー」を演奏した。 2002年、バンドは結成40周年を記念した2枚組のベスト・アルバム『フォーティ・リックス』(イギリス2位; アメリカ2位)をリリースした。同作には新曲4曲が収録され、世界中で700万枚以上を売り上げた。同年、Q誌の「死ぬ前に見るべき50のバンド」の一つに選出された。また、2002年から2003年にかけてフォーティ・リックス・ツアーが行われ、人々は死ぬ前に見るチャンスが与えられた。このツアーは小劇場やアリーナ、スタジアムでのコンサートが行われた。カナダのトロントでは「to help the city」と掲げたコンサートがモルソン・カナディアン・ロックス・フォー・トロントで行われ、SARSの流行で打撃を受けた都市に対する支援となった。バンドがトロントでコンサートを行ったのはスティール・ホイールズ・ツアーのリハーサル以来であった。コンサートは約49万人が動員された。 2003年11月9日、バンドは香港ハーバーフェストの一環として香港における最初のコンサートを行った。同月に4枚組DVDセット『フォー・フリックス』をリリース。バンドはこれを独占的に販売する権利をベスト・バイに与え、それを受けていくつかのカナダとアメリカにおける小売店(HMVカナダとサーキット・シティー・ストアーズを含む)ではストーンズのCDとグッズが棚から撤去され、事情を説明する札が掲示された。12月12日、ミックはバッキンガム宮殿においてチャールズ皇太子からナイトの称号を授与された。2004年にはリックス・ツアーの模様を収めた2枚組アルバム『ライヴ・リックス』(イギリス38位; アメリカ50位)がリリースされ、アメリカでゴールドアルバムを獲得した。2004年11月にはイギリス音楽の殿堂入りの候補となった。
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