1992年–現在
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「アメリカ合衆国の外交史」の記事における「1992年–現在」の解説
ソビエト連邦が別々の国々に分かれたこと、およびロシアという国が再登場したことで、世界のアメリカ合衆国寄り、ソビエト連邦寄りという同盟関係が崩れた。これに代わって気候変動や核テロリズムといった異なる問題が浮上した。イラクのサッダーム・フセインのような地域的実力者かつ専制者が1991年に小国のクウェートを突然侵略して平和を破った。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は同盟国と中東強国との連携を取り、侵略軍を追い出したが、イラクに侵攻しフセインを捕まえるのは思い留まった。その結果、フセインはその後の12年間思い通りに振舞った。湾岸戦争の後、ズビグネフ・ブレジンスキーのような多くの学者は、アメリカ合衆国の外交政策に新しい戦略構想が欠けており、その結果多くの外交努力を行う機会を逃していると指摘した。1990年代、アメリカ合衆国は冷戦時代の防衛予算、すなわちGDP比6.5%とほとんど同じまで外交政策予算を戻し、一方ビル・クリントン大統領指導下で国内経済の繁栄に焦点を当てて、1999年と2000年には財政黒字を達成した。また元ユーゴスラビアでの民族紛争には国連平和維持軍として介入し、平和維持者としての役目を果たした。 経済繁栄の10年間は、2001年9月11日、ニューヨーク市のワールドトレードセンターへの攻撃で終わった。武装組織アルカーイダに属するテロリストによるこの凶行はアメリカ合衆国を全国的な喪につかせ、外交政策のパラダイムシフトを促した。1990年代の国内繁栄に宛てられていた焦点は、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で単独主導路線に転換し、中東における原理主義者の拡大するテロと見られるものに対する闘争になった。アメリカ合衆国は「対テロ戦争」を宣言した。この政策が直近10年間の外交政策を支配し、中東のアフガニスタンとイラクに対する軍事作戦行動を始めた。双方の作戦、特にアフガニスタンでは国際的な支援を得たが、その規模と期間によって同盟国の動機が薄れてきた。さらにイラクを占領したものの大量破壊兵器が発見されなかったために、テロを防ぐ為に戦われた戦争に世界的な懐疑心が生じ、イラク戦争を継続することでアメリカ合衆国のイメージについて深刻な否定的影響を与えてきた。 ここ数年の大きな変化は世界の二極構造から多極化に進んでいることである。アメリカ合衆国は相変わらず経済と軍事で強国であるが、中国、インド、ブラジルおよびロシア、さらには統一されたヨーロッパがその一極支配に挑戦している。ニーナ・ハーシガンのような外交政策分析家は6つの新興強国が共通の関心を分け合うと主張している。つまり自由貿易、経済成長、テロの防止、核拡散の防止である。戦争を避けられるならば、次の十年間は誤解と危険な競争が無い限り、平和で生産的でありうる。 バラク・オバマ大統領はその最初のテレビ会見で、アラビア語衛星テレビを通じてイスラム教世界に向けた演説を行い、前政権で壊れた関係の修復に取り組む姿勢を表明した。オバマ政権になってもなおアメリカ合衆国の外交政策は、イスラム教世界のその主要な同盟国であるパキスタンを含め刺激し続けている。 アメリカ合衆国に残る深刻な問題は、宗教的憎しみやアラブ諸国のイスラエルに対する敵意で悪化し続けている。核拡散の危険性は、核兵器を造ることを主張して国際社会を公然と愚弄するイランや北朝鮮のような国々で明らかになっている。気候変動のような重要な問題は多くの国家政府の協業を要求しており、時には大変な決断と外交努力が必要になる。核テロリズムの脅威は、9.11以降大きな事件は起こっていないもののまだ続いている。
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