1992年-1995年 シャザル時代
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「AG2R・シトロエン・チーム」の記事における「1992年-1995年 シャザル時代」の解説
1992年、ヴァンサン・ラヴニュがゼネラル・マネージャーとなり、シャザル=ヴァニユ・エ・ミュル(Chazal-Vanille et Mûre)という名称で結成。メインスポンサーはジュラ県でアラン・シャザルが経営する精肉店のシャザルl。シャザルはラヴニュが個人プロとして走っていた1990年から1991年に個人スポンサーとしてついており、他の企業もチームへの資金を提供をすることを条件にメインスポンサーとなった。シャザルの他には美容製品メーカーのヴァニユ・エ・ミュルや自転車パーツメーカーのヴェッタなどがスポンサーになり年間予算は約240万フランにもなった。チームは3月に行われたツール・デュ・ヴォクリューズ第2ステージでチーム初勝利を挙げたスイス人ライダーのジョセリン・ジョリドンをはじめ、12名の選手で構成された。9月にはエストニアの若手スプリンターであるヤーン・キルシプーが研修生として加入し、パリ〜ブールジュ第1ステージではトップスプリンターのオラフ・ルードヴィッヒを抑えて優勝した。その後、キルシプーはチームの中心選手となっていく。 1993年、シャザルが引き続きメインスポンサーを務め、サードスポンサーだったヴェッタがセカンドスポンサーに昇格し、新たに自転車メーカーのMBKをスポンサーに迎え、シャザル・ヴェッタ・MBK(Chazal-Vetta-MBK)に改称。新たにブエルタ・ア・エスパーニャ覇者でフランス選手権2連覇も達成したエリック・カリトゥーが加入。チームはこの年初めてツール・ド・フランスに参戦。 1994年、新たにタイヤチェーンメーカーのケーニヒがスポンサーに加わり、シャザル・MBK・ケーニヒ(Chazal-MBK-König)に改称。特に目立った結果は残せなかったが、ドーフィネ・リベレでは総合3位に入ったアルトゥーラス・カスプティスを含め3人が総合トップ10入り。ツール・ド・フランスに2年連続で参戦を果たした。 1995年、新たにジャーモンドSAがスポンサーに加わる。カリトゥーが引退する中、ジャンフランソワ・ベルナール、ブルーノ・コルニエ、ジル・デリオンというフランスのトップクラスの3選手が加入。しかし3選手は期待した結果を残すことが出来ず、スポンサーを説得するためにツール・ド・フランスに加えてブエルタ・ア・エスパーニャにも参加するが、ラブニュを信頼する6人の選手が残る中、この年でシャザルがスポンサーを撤退しチームはスポンサーを失ってしまった。
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