1992–1997年;3度目の逮捕とプロポジション215
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「ブラウニー・メアリー」の記事における「1992–1997年;3度目の逮捕とプロポジション215」の解説
私の坊やたちはそれを必要としていて、私は自分の主義を曲げるくらいなら刑務所に行くつもりでいる…。どんな取引もするつもりはない。刑務所に行くというなら、行くんでしょう Brownie Mary 1992年7月19日、ラスバンはカリフォルニア州カザデロの大麻栽培者の家でブラウニーの生地に大麻を混ぜているときに3度目の逮捕をされた。このときは1kg強の大麻の所持罪に問われたが、保釈された。ソノマ郡の地方検事はラスバンを公訴したが、このラスバン事件は世界中のメディアに取り上げられた。マリファナ所持につき2件の重罪訴因について無罪を主張し、実際に無罪となった。弁護士のノーマン・エリオット・ケントは、ラスバンが用いた法廷戦術が医療上の必要性に依拠しており、これはまさにランドール事件(1976年)でロバート・ランドールが用いた戦術と同じであることを指摘している。ケントによれば、ラスバンは「困っている人を支援するために仕事をしたのであり、個人的な欲望を追求したわけではないと証言することができた。法を犯したことへの非難に彼女の行動の気高さが勝ったのである」。 1992年8月、ラスバンはサンフランシスコ市管理委員会の聴聞に出席し、医療大麻について証言を行った。委員会では医療大麻の所持または栽培を行った人を逮捕または起訴することを「最低の優先度」とする決議を採択した。病委員会は院でのラスバンのボランティア活動を評価して、8月25日を「ブラウニー・メアリーの日」と宣言した。 1992年9月、ラスバンはワシントンでブッシュ政権における医療大麻の否定的な取り扱いに抗議するアクトアップの集会に参加した。アクトアップは、アメリカ公衆衛生局の長官ジェームズ・O・メイソンにエイズに感染した人がすぐにでも大麻にアクセスできる権利を求める書簡を送っている。少人数の患者グループに医療目的での大麻の使用が認められてから14年後、メイソンは1992年3月に連邦政府の研究用新薬のコンパッショネート(例外的)使用制度を打ち切っていた。カーター政権が初めて研究用新薬のコンパッショネート使用制度を設立した1976年は、ロバート・ランドールが自身の裁判で医学的な必要性について論じて認められた年だった。 コンパッショネート使用制度を取りやめたことに加えて、制度を論じる際にメイソンは大麻を使用するエイズ患者に「安全な性行為をしていない傾向にある」などといった発言をして物議をかもしていた。アクトアップは大麻へアクセスする権利の回復を求め、メイソンがそれに応えられないならば長官の職を辞任せよと迫った。抗議集会ではラスバンに敬意を表してブラウニーがふるまわれた。この1か月前に彼女は逮捕されており、エイズ患者に大麻入りのブラウニーを配ったとして重罪(felony)に問われていた。アメリカ合衆国保健福祉省の建物の外で、ラスバンはメイソンに呼びかけた。「私に2日ばかりくっついて一緒に病室の坊やたちに会いに行きなさい。そうすれば自分がしていることがわかるでしょう」。 1992年、ペロンがアメリカ初の医療マリファナの薬局であるサンフランシスコ・カンナビス・バイヤーズ・クラブを開設し、ラスバンもそれを手伝った。1996年、二人はポゼッション215の成立に向けて運動を組織した。これはカリフォルニア州全体を巻き込んだ有権者によるイニシアチブ(住民発議)であり、医師のすすめのもとで個人の治療の範囲で大麻を所持・栽培することを認めるものであった。この発議は、有権者の55パーセントの票を得て採択され、州の法律となった。その後、他の州でも同様の法律が成立していった。 1997年、ラスバンはデニス・ペロンとともにその栄誉を称えられサンフランシスコ・プライドパレードのグランドマーシャル役〔最も目立つ先導役〕に抜擢された。
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