1941 - 1942年
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「ファラガット (DD-348)」の記事における「1941 - 1942年」の解説
1941年12月7日、真珠湾のイースト・ロック14番ブイにエールウィン(英語版) (USS Aylwin, DD-355) と並んで係留されていたファラガットは、艦長エドウィン・K・ジョーンズ少佐が上陸中で上級将校が代わりに艦の指揮を執っていた。間もなく真珠湾攻撃が始まり、ファラガットは7時58分に警報を鳴らして8時12分から反撃を開始。反撃を8時52分まで続けたのち湾外に出た。ファラガットが行った反撃のうち、プリンストン大学出身のジェームズ・アーメン・ベンハム少尉の働きは目覚ましく、ベンハム少尉はブロンズスター・メダルを授与された。攻撃後は1942年4月までハワイとサンフランシスコ間で船団の対潜護衛任務に従事した。 1942年4月15日、ファラガットは空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を中心とする、ウィルソン・ブラウン中将の第11任務部隊に加わり、南太平洋方面へと向かう。このころ、日本軍の圧力はポートモレスビーやニューギニア島、あるいはオーストラリアやニュージーランドにいたる通商路を徐々に圧迫し、この脅威を取り除くため海軍は迅速に迎撃態勢を整えた。同じころに南太平洋を行動していた第17任務部隊(英語版)(フランク・J・フレッチャー少将)の空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) からの航空機が、ツラギ島や対岸のガヴツ(英語版)にいた日本軍を攻撃したのは5月4日のことであり、珊瑚海で合流した第11任務部隊および第17任務部隊は、日本側の原忠一少将率いる第五航空戦隊も珊瑚海に入りつつあることを知る。互いの敵を見ずに始まった珊瑚海海戦は、まず5月7日に両任務部隊からの艦載機がMO攻略部隊を発見して攻撃し、空母祥鳳を撃沈して先手を取った。翌5月8日、ファラガットは任務部隊から分離し、支援部隊の護衛に回る。ファラガットが属した部隊も日本機の激しい空襲に晒されたが、ファラガットはそのうちの5機を撃墜して損傷はなかった。日本機のほか、B-17の一隊が支援部隊を誤爆するハプニングもあったが、爆弾はファラガットの左舷側に落ちただけで大事なかった。5月11日にクイーンズランド州シド湾に帰投したファラガットは、6月下旬までオーストラリア、ニュージーランド、フィジー、トンガタプ島方面で船団護衛に従事し、6月29日に真珠湾に帰投した。 ファラガットが属し、珊瑚海海戦でレキシントンを失った第11任務部隊は新たに空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) を迎え、7月7日にフレッチャー少将の指揮下で真珠湾を出撃。8月7日のガダルカナル島の戦いに際してはサラトガの護衛と航空支援任務に就き、その後もガダルカナル島にいたるシーレーンの確保のために東部ソロモン諸島方面を行動する。8月24日から25日にかけての第二次ソロモン海戦でも同じく護衛任務に従事。日本機の空襲からサラトガを守り通した。8月31日、戦艦ノースカロライナ(USS North Carolina, BB-55)が伊26をレーダー探知したため、確認に向かったが、途中で反応が消えた。その後、伊26の雷撃によりサラトガが大破し、ファラガットは主なき任務部隊の護衛任務をお役御免となる。9月から1943年1月まではガダルカナル島を中心としてオーストラリアやニュージーランド方面での船団護衛任務に再び就き、1月27日に真珠湾に帰投。西海岸に回航されてオーバーホールと訓練任務を行った。
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1941 - 1942年
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「ハル (DD-350)」の記事における「1941 - 1942年」の解説
1941年12月7日の真珠湾攻撃の際、ハルは駆逐艦母艦ドビン (USS Dobbin, AD-3) に横付けして修理中であったが、対空砲火で応戦した。攻撃は戦艦に対するものが主体だったためハルは被害を受けず、翌日には真珠湾攻撃前から外洋で行動中だった空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の出迎えのため、真珠湾を出港した。1942年に入ると、ハルはウィルソン・ブラウン中将率いる第11任務部隊に編入され、空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) の直衛を務める。ソロモン諸島方面に進撃した日本軍を攻撃する第11任務部隊とともに行動し、3月26日に真珠湾に帰投。以降3カ月間は真珠湾とサンフランシスコ間で護衛任務につき、5月の珊瑚海海戦や6月のミッドウェー海戦には不参加だった。ハルは南方からの反撃のためフィジーに進出し、7月26日にソロモンの戦場に向けて出撃。8月7日から8日にかけてのガダルカナル島上陸作戦では、艦砲射撃と対潜警戒にあたった。次の日には日本機の空襲を受けたものの、ハルは対空砲火でそのうちの何機かを撃墜した。この空襲で兵員輸送艦ジョージ・F・エリオット(英語版) (USS George F. Elliott, AP-13) が被弾炎上して維持が困難となり、ハルがその処分にあたった。8月9日にはガダルカナル島沿岸でスクーナーを撃ち沈め、夕方にエスピリトゥサント島に向かった。戦いの行く末が定かでなかった数週間の間、ハルはガダルカナル島向けの輸送船団護衛を三度行い、9月9日と14日には攻撃を受けたものの、被害はなかった。ハルは10月20日に真珠湾に帰投し、1942年の残りの期間は戦艦コロラド (USS Colorado, BB-45) とともにニューヘブリディーズ諸島近海で行動した。
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