1900年(明治33年) - 1912年(明治45年)
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「日本の鉄道史」の記事における「1900年(明治33年) - 1912年(明治45年)」の解説
1900年(明治33年)4月8日 : 山陽鉄道により、日本初の寝台車が登場。国鉄初の寝台車が登場したのは1900年(明治33年)10月1日。 1904年(明治37年) : 自動信号機の使用が始まる。保安性の向上に貢献した。 1904年(明治37年)大阪市電で日本初の2階建車両が登場。戦後、「ビスタカー」などの観光特急や、「Max」など長距離車両・通勤用車両にも使用されるようになった。 8月24日 : 甲武鉄道(後、中央本線の一部)が、蒸気列車と併用して電車の運行を開始。郊外電車(路面電車を除く電車)の始まりといえた。 1905年(明治38年)4月12日 : 阪神電気鉄道の大阪(出入橋) - 神戸(雲井通)間が開業。それまでの私鉄は1900年(明治33年)に公布された「私設鉄道法」に基いて建設が行われていたが、この阪神電鉄は路面電車と同じ軌道として建設された都市間高速電車であった。以後、京阪電気鉄道・京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)など類型の私鉄会社が次々と誕生することになる。 1906年(明治39年)3月31日 : 鉄道の原則国有化を定めた鉄道国有法が公布される。日清戦争・日露戦争を経て、軍事需要が増加した際などには全国一元の輸送が行えるようにしたほうが好ましいと判断されたことや、関西鉄道のように国鉄線と激しい競争を行って経営が傾くような私鉄があったこと、人口の少ない地域では鉄道運賃が高くなることから全国一律の運賃体制を望む地方民の声があったことなどにより、明治初め頃から井上勝などが何度も主張していたことが、ようやく実ったものである。これにより主要17私鉄が翌年までに国有化され、私鉄線は地方輸送を行うものだけが残ったことから、国鉄線対私鉄線のシェアはそれまでの3:7から9:1へと大きく変わり、国有鉄道主導による輸送体系が確立されることになる。 1909年(明治42年)10月12日 : 国有鉄道の線路名称が制定され、現在の常磐線などの名がこの時生まれた。 1910年(明治43年)3月10日 : 箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が、現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業させる。この会社の代表であった小林一三は、乗客誘致のために沿線に郊外住宅地の分譲を行ったり遊園地を開設したりと、現在の私鉄経営のモデルをつくり上げた。 4月21日 : 地方の鉄道整備を促進するため、「軽便鉄道法」を制定公布。従来からの私鉄建設のための法令である「私設鉄道法」に比べて簡略な内容になっており、以後この法に基く軽便鉄道が各地で建設されるようになる。 1911年(明治44年)3月27日 : 軽便鉄道の建設を促進するため、政府が補助を行う「軽便鉄道補助法」公布。 1912年(明治45年)5月11日 : 信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間で、アプト式電気機関車EC40形が使用開始される。本線用の営業運転では日本初の電気機関車でもあった。この区間が電化された背景には、トンネル区間における蒸気機関車の煤煙問題が大きかったことがあげられる。 6月15日 : 新橋駅 - 下関駅間で、日本初となる特別急行列車(特急列車)が運行を開始。下関で関釜連絡船と連絡し、釜山から朝鮮・満州・シベリア(朝鮮鉄道・南満州鉄道・シベリア鉄道)を経由してヨーロッパに至る欧亜連絡ルートの一部を構成する目的で運行開始された。日本とヨーロッパの間を往来する旅客に主眼を置いて設定されたため、外国に対する日本の国威を示す宣伝塔の役割も負っていたとされ、運転開始当初は一等車・二等車のみの編成で一般人が乗る三等車が連結されないなど、まさに「特別」な性格を持った列車であった。
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