19世紀:実証主義から反実証主義へ
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「社会学史」の記事における「19世紀:実証主義から反実証主義へ」の解説
初期の理論家たちによる社会学に対する方法論的アプローチは概して社会学を自然科学と同じやり方で扱うものであった。あらゆる社会学的な主張・発展に議論の余地のない基盤を与えるために、そして哲学のようなより経験的でない学問から社会学を区別するために、経験主義と科学的方法の強調が追求された。この社会学的実証主義と呼ばれる立場が基づいている仮定は、真の知識とは科学的知識のみであり、そういった知識は厳密的に科学的・定量的な研究を通じて理論を確認することによってのみ得られるというものであった。エミール・デュルケームは理論に基づいた経験的研究の唱道者であり、相互関係を追求して、構造的法則つまり「社会的事実」を発見した。彼にとって、社会学とは「制度、制度の起源、制度の機能、の研究」といえるものであった。デュルケームは社会学的発見を政治的改革や社会的団結の追求に適用することに尽力した。今日、デュルケームの実証主義の学問的説明は誇張や過度の単純化に対して弱いといえる: コントは、社会領域はボクシングと同じ方法で科学的分析の主題になり得ると仮定した唯一の有名な社会学思想家であり、対してデュルケームは根本的な認識論的限界をかなりの程度認めた。 実証主義に対する反動はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年–1831年)が経験主義を無批判的だとして退け、決定論を過度に機械論的だとみなした際に始まった。カール・マルクスの方法論はヘーゲルの弁証法からの借り物であるが実証主義を拒絶して批判的分析を好みもし、思い違いを排除することで「事実」の経験的な獲得 を補おうとした。観察されたものは単純に記述されるよりもむしろ批判に曝されるべきだと彼は主張した。それにもかかわらず、マルクスは史的唯物論の経済的決定論に基づいた「社会の科学」を作り出そうと尽力した。ヴィルヘルム・ディルタイ(1833年–1911年)やハインリヒ・リッケルト(1863年–1936年)といった他の哲学者は、人間文化を形作る人間社会に特有の様相(意味、記号、その他)のために自然世界は社会的世界から区別されると主張した。 20世紀になると、ドイツの社会学者の最初の世代が方法論的反実証主義を形式的に導入し、研究を人間の文化的規範、価値、記号、主観的視点から見た社会の過程に集中すべきだと主張した。マックス・ヴェーバーは、社会学は因果関係―特に理念型、つまり複雑な社会現象の仮定的な単純化、の間の関係―を同定できるので大雑把には「科学」と言えると主張した。しかし反実証主義者として、ある者は自然科学者が求めるもののように「非歴史的・不変的・一般化可能」ではないものの間の関係を追究した。フェルディナント・テンニースは人間の関係の二つの基本型としてゲマインシャフトとゲゼルシャフト(「共同体」と「社会」を意味する)を提唱した。テンニースは概念の領域と社会的行為の実在の領域を間に一線を画した: つまり、前者は公理的に、演繹的方法によって扱われるべきであり(「純粋」社会学)、後者は経験的に、帰納的方法で扱われるべき(「応用」社会学)だとしたのである。ヴェーバーとゲオルク・ジンメルの両者が社会科学に対する解釈的アプローチを開拓した; つまり、外部の観察者が特定の文化集団あるいは土着民と、彼らの言葉・考え方で関係を持とうとする体系的過程というアプローチを開拓したのである。特にジンメルの著作を通じて、社会学は実証的なデータの蓄積、つまり構造法則の決定論的体系の間にあり得る特徴を受容した。ジンメルは生涯を通じて学術的な社会学から比較的孤立しており、コントやデュルケームよりもむしろ現象学や実存主義の著作家を思わせる奇異な近代分析を提示して、社会的人格の形式や可能性に特に関心を払った。彼の社会学は認識の限界に関わる新カント主義批判に携わり、カントの「自然とは何か?」という問いに対する直接的な当てつけとして「社会とは何か?」と問うた。
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