100万kW容量機の導入戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 23:16 UTC 版)
「福島第一原子力発電所6号機の建設」の記事における「100万kW容量機の導入戦略」の解説
『日刊工業新聞』(1968年2月28日)によると1967年秋、東京電力は東芝、日立など重電各社に75~150万kW級のプラント製作が可能か打診した。各社はこの打診に「製作可能」と回答し、大容量機開発のペースを速めることとした。また東京電力は1968年に発表した長期設備計画にて、本発電所の5号機に110万kWの出力を採用し、1973年度より着工する計画を立てた(中央電力協議会資料では場所を明記する地点名は未付与である)。この時制作上のネックとして指摘されたのは、タービン翼で、当時、国産化された最終段翼で最大のサイズは姉崎火力発電所に納入された33.5インチ(3000回転)が最大であり、海外の例としてはGE社が2極高速機にて36インチ、4極低速機で52インチを実用化していた。日立、東芝はGEが実用化した2タイプについて実験段階の試作には成功しており、特に日立製作所は低回転用に70インチモデルの試作を実施、製造上のボトルネックを解消するためスイスのリジット社から70インチのタービン翼加工機(油圧ならいブレードミラー)を購入した。 『東電社報』1969年7月号に掲載された座談会では、住谷寛(当時原子力計画課長)が、火力に比較しても高価な資本費を理由にスケールメリットの重要性に言及し、1973年に100万kW級ユニットの着工をはかり、1980年代前半には「150万kW級ユニットとしなければなりません」「大容量化したときの技術問題は、圧力容器とタービンですが、150万kWまでは、現在の技術の延長ですすむことができる」と所見を述べていた。圧力容器は出力密度の増加、タービンは翼に当時欧米では採用例が出始めていた40インチクラスのものを使用する事がその根拠であった。 田中直治郎は『電気情報』1969年12月号にて2号機選定の経緯について説明したのち、更なる大容量ユニットの採用について次のような「設計製作上配慮すべき事項」を示している。 圧力容器:胴板厚は1号機と同レベルの159㎜であるため問題なく、寸法上も日本製鋼の設備能力で対応出来るため日本国内での製作が可能。但し、RCCV化は(当時)研究段階に留まる タービン:最も重要な最終段翼の設計に当たって、下記4点を考慮する必要があり、結果として43~44インチでは6流式(TC6F-43型)とせざるを得ない 遠心力、変動荷重(重力、軸受部反力、変動蒸気力に起因する)および蒸気トルクに翼が耐えること ドレンエロージョンに耐えること 羽根効率、段落効率を良くすること 試験、製作が十分な精度で可能なこと 蒸気流量が増大するため負荷急変時の速度上昇が問題となり、これを抑制するため制御装置を高度化する必要がある。結果として停止、調整、再熱等各用途に使用する蒸気流入弁は流量増大と高速動作を達成する必要がある タービンローターは長大化するため振動特性を改良の必要がある 軸受台固有振動数とタービンローター固有振動数が共振しないこと 温度変化によるタービンローターの曲がりを防止する 発電機:4極機となるためローター素材の製造限界が問題となるが、日本製鋼での1969年当時の限界は仕上重量で120tとなる。120tの素材から1本ローターを製作すると50万kW、3分割で80万kWが限界となり、100万kW級で要求される190~200tには及ばない。このため、日本製鋼は1970年までに190t素材を製造可能な設備投資を実施中であり、将来的には解決の見込みだった。 なお、田中は系統構成から見たユニットサイズの決定要素として、経済性(ユニットサイズを大とすればkW単価は低下する)、事故時の周波数低下等系統面の制約(事故で当該大容量ユニットが系統から解列された際、電力系統の供給信頼度を低下させないためには、予備率を大きくとる必要が生じる)を指摘している。しかし、田中は1973年度には最大需要が2000万kWを超過するため、単機で100万kWの容量を占めるユニットが系統に接続されることは問題ないと結論している。
※この「100万kW容量機の導入戦略」の解説は、「福島第一原子力発電所6号機の建設」の解説の一部です。
「100万kW容量機の導入戦略」を含む「福島第一原子力発電所6号機の建設」の記事については、「福島第一原子力発電所6号機の建設」の概要を参照ください。
- 100万kW容量機の導入戦略のページへのリンク