震災復興橋梁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 06:13 UTC 版)
そのほか東京市中の川に架かっていた橋も大部分が甚大な損傷を被り、このため大地震にも持ちこたえられる恒久的な橋を計画的に架ける必要が生じた。隅田川では、下流から順に、相生橋(1998年に現在の橋に架け替え)、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋の9つが震災復興橋梁として架けられ、震災前の1912年に開通していて震災で壊れなかった新大橋(1977年に現在の橋に架け替え)を加え、隅田川十橋と称されている。9つの橋のうち、両国、厩、吾妻の三橋は東京市が担当、残りの6つの橋は内務省東京復興局に創設された橋梁課が担当した。 この分野では、初の鉄製鉄道橋が1874(明治7)年に生まれて以来、鉄道が技術的に先行していたし、道路では、市区改正期に日本橋、四谷見附橋、新大橋、呉服橋・鍛冶橋など、その地に合わせた装飾に優れた橋梁がすでに生み出されていた。 明治40年代に鉄道の設計基準を手がけ、帝都復興院には土木局長で招請された太田圓三と鉄道省後輩の田中豊が橋梁課長を務めて橋梁事業の中心になった。 太田が力を注ぐのは、復興橋梁の、特に国が担当する隅田川六大橋(相生橋、永代橋、清洲橋、駒形橋、言問橋、蔵前橋)の設計にあたっては美観が重視された。 設計に当たっては復興帝都にふさわしい意匠を成すために外国事例や画家や作家などの意見を聞くなどして、建築家野田俊彦の「全て同一形式」意見を否定。 復興局で設計された橋梁デザイン案について、外観はもとより親柱、欄干など、工学と美学の調和に努めて意匠を定めるため、当初太田は諸外国の事例を収集させるとともに弟をたよって画家などからのアイデアを求めたが 実際には役立たなかった。そこで芸術家・建築家・造園家等からなる工作物意匠調査委員会の設置を決定。 建築家の協力が求められることとなり、当時の逓信省営繕課に勤務する建築家スタッフをスカウトして設計組織を形成していった。部長太田圓三や課長の田中豊はまず山田守を、続いて山田の推挙で山口文象を嘱託とする。山田は聖橋等を担当。山口は数寄屋橋、清洲橋、八重洲橋をはじめ、数多くを手がける。 検討に多くのスケッチを残し、基本方針を定めた。田中はそれを踏まえて多様な形式を採用し、構造美を都市内に創出していった。 復興局が手がけた橋の数は100以上といわれている。帝都復興は、数年の間に東京市だけでも国142、市313の橋を建設するという、類のないプロジェクトになった。 帝都の門たる第一橋梁の永代橋はアーチ橋とし、第二橋梁の清洲橋はライン川にかかるケルンの吊橋をモデルとするやわらかさを感じさせる案を採用し、橋の博覧会ともいえるような状況が生じた。 構造も、タイドアーチの永代橋、自碇式吊橋の清洲橋、ゲルバー桁橋の言問橋などと多様な構造や、ニューマチックケーソン・綱矢板の工法、高張力綱の新材料使用など新技術を採用。厩橋の三連下路タイドアーチ、吾妻橋の上路アーチ、両国橋のゲルバー桁橋や聖橋の上路アーチ、お茶の水橋のゲルバー桁併用綱ラーメン橋などは、東京市が担当した。 また、市内の運河・小河川向けには「復興局型」と呼ばれるラーメン橋台を考案し形式の標準化を図った。橋台を流路に置くことによって、土地区画整理事業が遅れ接続道路が未完成の状態でも架橋できるようにしたもので、市民の評判を呼んだという。 また、復興局は「橋詰広場」を確保し、派出所、トイレ、防災器具置き場などを路上工作物として配置した。歴史的には、江戸の河岸や橋詰広場、明治からの橋詰の街頭便所、市区改正の小公園などを引き継いだものであった。 こうして隅田川の橋梁群は個々の橋が多様なデザインを主張しながら、全体として都市景観に高いシンボル性をもたらすこととなる。作家永井荷風も随筆「深川の散歩」の中で、清洲橋からの隅田川の眺望を書き残している。 言問橋 竣工当時の橋 吾妻橋 駒形橋 竣工当時の橋 厩橋 竣工当時の蔵前橋 架橋直後の現両国橋 竣工当時の清洲橋 永代橋 1926年完成の旧相生橋 数寄屋橋 東京府内ではほかに、国道にかかる六郷橋、千住大橋、千住新橋等が施行されている。
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