震災復興小学校建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 06:13 UTC 版)
「震災復興再開発事業」の記事における「震災復興小学校建設」の解説
またアメリカからの義援金等国際的な応援もあり、鉄筋コンクリートの小学校校舎建設を進めた。校舎のデザインは時代の先端とされたドイツ表現主義の影響を受け、日本の分離派の影響が色濃い建築物が多く作られていく。建設にあたっては、復興院建築局長を務めた東京帝国大学教授佐野利器が、東京市長永田秀次郎(当時の後藤系官僚の筆頭)に請われて、教授兼任で東京市建築局長に就任する。早速佐野は建築局に古茂田甲午郎らを呼び寄せ、都市計画業務に従事していた石原憲治、田中希一、福田重義らと設計にとりかかる。佐野の主導で、将来を担う子供に衛生思想を根付かせる意味でのトイレの水洗化、暖房設備、理科教育や公民教育を重要視した教室など、合理主義に基いた設計思想が導入される。教育局はこうした施設は贅沢といって作法室の設置を望んだが(畳敷きの作法室は教師たちの一杯やる場所でもあったらしい)、佐野は作法室の設置を拒み、教育局との間で確執が生じる。教育局は教育関係者を総動員して反対運動を展開したが、佐野は復興前に計画し完成した小学校の作法室を現場監督に命じて破壊させるなど、最後までゆずらなかった。また設計および施工指針のハンドブックを作成、メートル法を徹底して採用し、骨組み・ディテールを標準化。スチールサッシュとスチーム暖房も採用していく。鉄骨コンクリート構造に関しては、アメリカから取り寄せた鉄骨の長さが予定より足りず、海軍技師の協力を得て溶接したほか、強度鑑定の証明書を内藤多仲に依頼した。
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