電源開発の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
木曽川開発については大同電力成立後も着実に進展した。木曽電気興業時代に木曽川の賤母発電所(出力1万4700キロワット)と矢作川の串原発電所(出力6,000キロワット)が運転を開始していたが、大同電力発足から1926年(大正15年)までに以下の発電所が木曽川に建設された。 大桑発電所 - 1921年8月運転開始、出力1万1000キロワット 須原発電所 - 1922年7月竣工、出力9,200キロワット 桃山発電所 - 1923年12月竣工、出力2万3100キロワット 読書発電所 - 1923年12月竣工、出力4万700キロワット 大井発電所 - 1924年12月竣工、出力4万2900キロワット 落合発電所 - 1926年12月竣工、出力1万4700キロワット 発電所群以外にも大同電力は、大阪市近郊に変電所を設置して1922年7月より関西地方への送電を開始し、1923年12月には木曽から大阪まで亘長200キロメートルを超える長距離送電線を完成させた。また、1923年10月、大阪電灯が大阪市によって市営化された際には、市営化の対象から外れた残余資産を大阪電灯から買収し、関西方面における地盤を強化。翌1924年2月には、関西地方の大手電力会社である宇治川電気と供給契約を締結し、宇治川電気に15万キロワットに及ぶ大量受電を契約させることに成功した。 これらの木曽川開発について、桃介自身は後年、次のように語っている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「木曽川は、上流に貯水池が出来る。途中非常な急勾配があって水路式発電所が出来る。一番終ひにはダムが出来る。御料林であるから水源は千古に尽きない。而も大阪名古屋のマーケットに近い。恐らく日本の水力地点として、これに越すものはなからう。これを擇んだのは私の卓見で大成功と言へるが、工事を始めるとなると無鉄砲に早くやって、矢張り株主に迷惑をかけたやうなことで、功罪相償って差引き何も残ってゐはしない。」 —『福澤桃介翁伝』逸話篇181-182頁 こうした電源開発に並行して大同電力では多数の傍系会社を立ち上げた。そのうちの一部に桃介も関係しており、電力会社では矢作川水系での電源開発を目的とする尾三電力が1921年7月に設立されると相談役に就任。天竜川開発のため1926年(大正15年)3月に設立された天竜川電力では初代社長となり、北陸地方での電源開発のため1926年(昭和元年)12月に発足した昭和電力では相談役となった。その他事業会社では、1921年11月、旧木曽電気製鉄に由来する鉄鋼事業を分離して発足した大同製鋼(初代)にて初代社長に就任する。ただし在任期間は短く翌1922年7月に電気製鋼所の鉄鋼事業を統合して大同電気製鋼所となるに際し退いた。また大同製鋼と同時設立の大同肥料では取締役として入った(初代社長山本条太郎)が、1927年(昭和2年)11月に社長となった。1922年2月に設立された北恵那鉄道(現・北恵那交通)でも社長を務める。 また相談役を務める東邦電力でも傍系会社に関係があり、1922年10月、東邦電力の全額出資で償却金の社外留保・運用を目的とする東邦貯蓄が設立されると代表取締役に就いた。代表取締役在任は1925年6月までの2年半である。また九州電灯鉄道関係者によって設立された筑紫電気軌道(1922年6月九州鉄道と改称)が関西電気に株式を持たせる形の増資を決議した1922年2月の株主総会において、同時に役員改選が行われた際に、桃介も取締役の一人となった。ただし在任期間は翌1923年6月までと短い。なお1928年(昭和3年)1月17日付で東邦電力相談役を退いている。 1928年6月、桃介は大同電力副社長の増田次郎に対し、自身の体調がすぐれず社長職に留まっては株主にも迷惑をかける、電源開発が一段落し外債発行にも成功したため良い機会だと思う、と辞意を表明し、9日付で大同電力取締役社長を辞任した。増田は26日付で後任社長に就任している。傍系会社では同じく6月9日付で天竜川電力社長を辞任。北恵那鉄道社長からは28日の総会をもって退き、8月大同肥料社長も辞任した。 桃介が退いた後の大同電力は増田次郎が社長として率いていくが、桃介死後の1938年(昭和13年)に「電力管理法」が成立して翌年国策会社日本発送電が発足すると、1939年(昭和14年)4月同社に合流して解散した。また松永安左エ門に譲っていた東邦電力も電力管理法とそれに続いて成立した「配電統制令」により設備を日本発送電や国策配電会社へと出資し、1942年(昭和17年)4月に解散、大同と同じく姿を消した。
※この「電源開発の進展」の解説は、「福澤桃介」の解説の一部です。
「電源開発の進展」を含む「福澤桃介」の記事については、「福澤桃介」の概要を参照ください。
- 電源開発の進展のページへのリンク