郭黙討伐
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咸和4年(329年)、陶侃は江陵に戻った。3月、侍中・太尉・都督交広寧等七州諸軍事を任じられた。また、羽葆鼓吹(車の覆いに鳥の羽根を綴った飾りを施し、軍楽を奏でる特権)を加えられ、長沙郡公に封じられた。食邑は三千戸となり、絹八百匹を下賜された。江陵は偏遠に位置していたため、巴陵に鎮所を移した。諮議参軍の張誕を派遣して五渓蛮を討ち、これを降伏させた。 当時、遼東に割拠していた慕容廆とも交流があり、慕容廆は王導・庾亮と並んで陶侃を称え「天下の望は楚漢で重要たる人物に注がれ、それは君侯の事である」と書を送った。 咸和5年(330年)12月、後将軍の郭黙は詔書を偽って平南将軍・江州刺史の劉胤を殺害した。政権を握っていた丞相の王導は、郭黙が勇猛であり制圧するのが難しいことから、代わりの江州刺史に任じた。陶侃がこの事を聞くと、仕事を中断して立ち上がり「この人事は必ず偽りである」と言い、すぐさま将軍の宋夏・陳脩に兵を与えて湓口に駐屯させ、自らも大軍を率いてこれに続いて進軍した。 郭黙は使者を陶侃の下へ派遣して妓妾と絹百匹を送り、写し取った詔書を陶侃に呈上した。僚佐の多くが陶侃を諌め「郭黙は詔書を得ていなければ、なぜこのように大胆な事をするというのですか。もし進軍されるとしても、本当の詔書を待ってからにすべきではないでしょうか」と言うと、陶侃は色をなして「天子はまだ幼く、これは決して自らの意ではない。劉胤は朝廷に重用されており、任務において才が乏しいとはいえ、どうして死罪になり得るだろうか。郭黙は勇猛を頼みとし、貪欲で横暴な振る舞いを繰り返している。国家の大乱がちょうど平定されたばかりであるから、朝廷の法律は簡略になっており、機会に乗じて好き勝手に振舞っているにすぎないのだ」と言い、使者を派遣して郭黙の罪状を陳述させた。また、王導に書を送って「郭黙は刺史を害して、自ら取って代わろうとしております。これを許すということは、宰相を殺してしまえば、自ら宰相になれるということと同じですぞ」と言った。王導はこれを受けて劉胤の首級を晒すのを止め、陶侃へ「郭黙は長江上流の有利な地勢を抑え、加えて戦艦を豊富に有している。だからひとまず耐え忍び、あの場所を占めさせてやっているのだ。朝廷は密かに装備を整え、貴下の軍隊を待った上で、風が起こるように軍を赴かせるつもりである。一時の感情に素直に従うのではなく、大事の策略が決まるのを待つのだ」と答えた。この書を見た陶侃は笑って「これはすなわち賊に屈服する下策である」と言ったという。 陶侃が軍を進めて江州に至ると、郭黙は南へ移り豫章を占めようと考えた。だが、陶侃の行動は速く、移動の途上で鉢合わせになり、一戦するも不利になった。その為、尋陽城に籠ると、米を積み上げて堡を築き、食糧が豊富にあることを顕示した。陶侃は土塁を築いて彼と対峙し、包囲攻撃を掛けた。 咸和6年(331年)3月、庾亮の軍勢が湓口に到着すると、各道に屯していた軍は皆合流し、包囲は幾重にもなった。陶侃は郭黙の驍勇を惜しんで、生きて投降させようと思い、郭誦を派遣して郭黙と会見させたが、郭黙は降伏を了承しなかった。5月、郭黙配下の宗侯が郭黙とその子五人と将軍張丑を縛って陶侃に投降した。陶侃は軍の門前で郭黙らを斬首し、首級を建康へ送った。 郭黙は中原にいた時、幾度も石勒らと交戦していたので、石勒の部下は大いに彼を恐れていたが、陶侃がこれを討ち、兵が血刃を交えることなく郭黙を捕らえたことを聞き、それ以上に陶侃を恐れたという。蘇峻配下であった馮鉄は、陶侃の子を殺して石勒の下へ投降し、石勒は彼に国境を任せていた。陶侃が石勒に真相を告げると、石勒は馮鉄を召してこれを殺した。朝廷は陶侃に江州刺史を兼任させ、新たに都督江州諸軍事に任じた。さらに、左右長史と司馬、従事中郎の四人と掾属十二人を増置させた。陶侃は巴陵に帰り、やがて武昌に移転した。 陶侃は張夔の子張隠を参軍に任じ、范逵の子范珧を湘東郡太守に任じ、劉弘の曾孫劉安を掾属に招聘し、梅陶を表論した。彼らは陶侃が貧しかった時に世話になった人々で、たとえ一度きりの恩であってもこれらに報いた。 この事件において、陶侃と王導の郭黙への対応の違いは江州での覇権争いが背景にあった。王導は郭黙の劉胤殺害を見逃す代わりに、彼を丸め込んで陶侃への対抗勢力とした。陶侃は王導を責めてすぐさま出兵し、江州を手中に収めんとした。結果、陶侃は江州を手に入れ、長江上流から中流にかけて支配下に置いた。この事件の後、陶侃は挙兵して王導を廃そうと考えたが、庾亮の仲裁と王導と縁戚関係にあった徐州刺史郗鑒の反対により取りやめた。 陶侃が武昌の守りについていた時、多くの者が江北にある邾城に拠点を移すべきであると訴えた。だが、陶侃はいつもそれに答えず、周囲の者はいつもそのことを説いていた。そこで陶侃は、諸将が河を超えて巻き狩りを行っていた時に、考えて「邾城は江北と隔たりがあり、内に拠るものが何もなく、外に敵と接している。たとえ軍を派遣しても、江南を守る上で益は無い。長江こそが侵略を阻む天険であるのだ。それに夷狄は欲深く、晋人が利を貪ると、夷狄はその性に耐えられず、必ず連れ立って攻め込んでくるので、すなわち禍を呼び込むの原因であり、防御する必要はない。呉の時代にこの城に三万の兵を置いて守備していたというが、今いたずらに兵を置いても、江南にとって無益である。もしこれが羯虜に付け込まれるようなことになれば、これはまた我々にとり利益になることはない」と答えた。諸将はようやく陶侃の考えを悟った。後に荊州刺史の庾亮が精鋭1万を邾城に派遣したが、339年に後趙が襲来すると孤立無援となり、あえなく陥落し多大な損失を出した。
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