郭黙討伐とは? わかりやすく解説

郭黙討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)

陶侃」の記事における「郭黙討伐」の解説

咸和4年329年)、陶侃江陵戻った3月侍中太尉都督広寧等七州諸軍事を任じられた。また、羽葆鼓吹(車の覆い鳥の羽根綴った飾り施し軍楽奏でる特権)を加えられ長沙郡公に封じられた。食邑三千戸となり、絹八百匹を下賜された。江陵は偏遠に位置していたため、巴陵に鎮所を移した。諮議参軍の張誕を派遣して五渓蛮を討ち、これを降伏させた。 当時遼東割拠していた慕容廆とも交流があり、慕容廆王導庾亮並んで陶侃称え天下の望は楚漢で重要たる人物注がれ、それは君侯の事である」と書送った咸和5年330年12月後将軍郭黙詔書偽って平南将軍江州刺史劉胤殺害した政権握っていた丞相王導は、郭黙勇猛であり制圧するのが難しいことから、代わり江州刺史任じた陶侃がこの事を聞くと、仕事中断して立ち上がりこの人事は必ず偽りである」と言いすぐさま将軍の宋夏・陳脩に兵を与えて湓口に駐屯させ、自らも大軍率いてこれに続いて進軍した郭黙使者陶侃の下へ派遣して妓妾と絹百匹を送り写し取った詔書陶侃呈上した。僚佐の多く陶侃諌め郭黙詔書得てなければ、なぜこのように大胆な事をするというのですか。もし進軍されるとしても、本当詔書待ってからにすべきではないでしょうかと言うと陶侃は色をなして「天子はまだ幼く、これは決して自らの意ではない。劉胤朝廷重用されており、任務において才が乏しとはいえ、どうして死罪なり得るだろうか郭黙勇猛頼みとし、貪欲横暴な振る舞い繰り返している。国家大乱がちょう平定されたばかりであるから朝廷法律簡略になっており、機会乗じて好き勝手に振舞っているにすぎないのだ」と言い使者派遣して郭黙罪状陳述させた。また、王導に書を送って郭黙刺史害して、自ら取って代わろうとしております。これを許すということは宰相殺してしまえば、自ら宰相になれるということと同じですぞ」と言った王導はこれを受けて劉胤首級晒すのを止め陶侃へ「郭黙長江上流有利な地勢抑え加えて戦艦豊富に有している。だからひとまず耐え忍び、あの場所を占めさせてやっているのだ。朝廷密かに装備整え貴下軍隊待った上で、風が起こるように軍を赴かせるつもりである。一時感情素直に従うのではなく、大事の策略が決まるのを待つのだ」と答えた。この書を見た陶侃笑って「これはすなわち賊に屈服する下策である」と言ったという。 陶侃が軍を進めて江州に至ると、郭黙南へ移り豫章占めよう考えた。だが、陶侃行動速く移動途上鉢合わせになり、一戦する不利になった。その為、尋陽城に籠ると、米を積み上げて堡を築き食糧豊富にあることを顕示した。陶侃土塁築いて彼と対峙し、包囲攻撃掛けた咸和6年331年3月庾亮軍勢が湓口に到着すると、各道に屯していた軍は皆合流し包囲幾重にもなった。陶侃郭黙驍勇惜しんで生きて投降させよう思い郭誦派遣して郭黙会見させたが、郭黙降伏了承しなかった。5月郭黙配下の宗侯が郭黙その子五人将軍張丑を縛って陶侃投降した陶侃は軍の門前郭黙らを斬首し、首級建康送った郭黙中原にいた時、幾度も石勒らと交戦していたので、石勒部下大いに彼を恐れていたが、陶侃がこれを討ち、兵が血刃を交えることなく郭黙捕らえたことを聞きそれ以上陶侃恐れたという。蘇峻配下であったは、陶侃の子殺して石勒の下へ投降し石勒彼に国境任せていた。陶侃石勒真相告げると、石勒は馮召してこれを殺した朝廷陶侃江州刺史兼任させ、新たに都督江州諸軍事に任じた。さらに、左右長史司馬従事中郎の四人と掾属十二人を増置させた。陶侃は巴陵に帰り、やがて武昌移転した陶侃張夔の子張隠を参軍任じ、范逵の子范珧を湘東郡太守任じ劉弘曾孫劉安を掾属に招聘し、陶を表論した。彼らは陶侃貧しかった時に世話になった人々で、たとえ一度きりの恩であってもこれらに報いた。 この事件において、陶侃王導郭黙への対応の違い江州での覇権争い背景にあった王導郭黙劉胤殺害を見逃す代わりに、彼を丸め込んで陶侃への対抗勢力とした。陶侃王導責めてすぐさま出兵し、江州手中に収めんとした。結果陶侃江州手に入れ長江上流から中流にかけて支配下置いた。この事件の後陶侃挙兵して王導を廃そうと考えたが、庾亮仲裁王導縁戚関係にあった徐州刺史郗鑒反対により取りやめた。 陶侃武昌守りについていた時、多くの者が江北にある邾城に拠点を移すべきである訴えた。だが、陶侃はいつもそれに答えず周囲の者はいつもそのこと説いていた。そこで陶侃は、諸将が河を超えて巻き狩り行っていた時に考えて「邾城は江北隔たりがあり、内に拠るものが何もなく、外に敵と接している。たとえ軍を派遣しても、江南を守る上で益は無い。長江こそが侵略阻む天険であるのだ。それに夷狄欲深く、晋人が利を貪ると、夷狄はその性に耐えられず、必ず連れ立って攻め込んでくるので、すなわち禍を呼び込む原因であり、防御する要はない。呉の時代にこの城に三の兵を置いて守備していたというが、今いたずらに兵を置いても、江南にとって無益である。もしこれが羯に付け込まれるようなことになれば、これはまた我々にとり利益になることはない」と答えた諸将はようやく陶侃考え悟った。後に荊州刺史庾亮精鋭1万を邾城に派遣したが、339年後趙襲来する孤立無援となり、あえなく陥落し多大な損失出した

※この「郭黙討伐」の解説は、「陶侃」の解説の一部です。
「郭黙討伐」を含む「陶侃」の記事については、「陶侃」の概要を参照ください。

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