陶侃に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:39 UTC 版)
咸和5年(330年)1月、司徒王導は郭黙が勇猛であり制圧するのが難しいことから、大赦を発して劉胤の首級を大航に晒し、郭黙を西中郎将・豫州刺史に任じた。武昌郡太守鄧嶽がこの経緯を太尉陶侃に伝えると、陶侃は「この人事は必ず偽りである。」と言い、その日のうちに郭黙の罪を上疏し、将軍宋夏・陳脩に兵を与えて湓口に駐屯させ、自らも大軍を率いてこれに続いて進軍した。郭黙は使者を陶侃の下へ派遣して妓妾と絹百匹を送り、写し取った詔書を陶侃に呈上した。僚佐の多くが陶侃を諌め「郭黙は詔書を得ていなければ、なぜこのように大胆な事をするというのですか。もし進軍されるとしても、本当の詔書を待ってからにすべきではないでしょうか。」と言うと、陶侃は色をなして「天子はまだ幼く、これは決して自らの意ではない。劉胤は朝廷に重用されており、任務において才が乏しいとはいえ、どうして死罪になり得るだろうか。郭黙は勇猛を頼みとし、貪欲で横暴な振る舞いを繰り返している。国家の大乱がちょうど平定されたばかりであるから、朝廷の法律は簡略になっており、機会に乗じて好き勝手に振舞っているにすぎないのだ」と言い、使者を派遣して郭黙の罪状を陳述させた。また、陶侃は王導に書を送って「郭黙は刺史を害して、自ら取って代わろうとしております。これを許すということは、宰相を殺してしまえば、自ら宰相になれるということと同じですぞ」と言った。王導はこれを受けて劉胤の首級を晒すのを止め、豫州刺史庾亮は郭黙討伐の援護に当たった。 2月、陶侃が軍を進めて江州に至ると、郭黙は南へ移り豫章を占めようと考えた。だが、陶侃の行動は速く、移動の途上で鉢合わせになり、一戦するも不利になった。その為、尋陽城に籠ると、米を積み上げて堡を築き、食糧が豊富にあることを顕示した。陶侃は土塁を築いて彼と対峙し、包囲攻撃を掛けた。 3月、庾亮の軍勢が湓口に到着すると、各道に屯していた軍は皆合流し、包囲は幾重にもなった。陶侃は郭黙の驍勇を惜しんで、生きて投降させようと思い、郭誦を派遣して郭黙と会見させた。郭黙は降伏を約束したが、配下の張丑・宋侯らが陶侃に殺されることを恐れて反対したので、出ることが出来なかった。5月、尋陽への攻撃は激しくなると、郭黙配下の宗侯が郭黙とその子5人と将軍張丑を縛って陶侃に投降した。陶侃は軍の門前で郭黙とその残党40人余りを斬首し、首級を建康へ送った。
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