陵・霊廟・遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 18:59 UTC 版)
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行ったが、陵墓関係の資料は発見に至らなかった。しかし、皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺30世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。臨時陵墓調査委員会(昭和10年 - 昭和19年、1935年 - 1944年)で審議の結果、桓武天皇や安徳天皇など埋葬地以外に陵が治定されている「擬陵」の前例を踏まえ、昭和16年(1941年)慶寿院跡を整備してひとまず陵墓参考地に指定したが、その後の調査でも葬地はなお判明せず、昭和19年(1944年)2月11日(旧紀元節)現陵号を定めて、同時に陵域内に海門承朝(承朝王)の墓も治定された。 一方、慶寿院は海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとする見解もある。例えば、村田正志は承朝が応永14年(1407年)に亡き父院を「長慶院」と称した書状が存在している事実を指摘して、慶寿院の創建を書状が作成された後の応永年間後期と推定し、また、天皇の晩年の在所は慶寿院ではなく、長慶院という名称の塔頭であったとして、これが追号「長慶院」の由来であると考えた。さらに、村田は仮説と前置きした上で、長慶院の所在を南朝庇護の禅寺である和泉大雄寺(「浜寺」の異名を持つ。中世末期に廃絶)に比定している。その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市・南砺市、奈良県吉野郡川上村、和歌山県伊都郡九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など、70箇所以上に及ぶ(その内、臨時陵墓調査委員会が「的確ナル資料ヲ欠クモ尚捨テ難キモノ」としたのは7箇所)。 「長慶天皇宸筆願文」(国宝「宝簡集」所収、金剛峯寺所蔵)は、元中2年(1385年)9月10日付で天皇自身が高野山丹生社に納めたもので、唯一現存する確実な天皇の自筆文書である。また、国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
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