近現代:商業地
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呉服元町が現在の地名となったのは、住居表示が実施された1969年(昭和44年)12月1日からである。この範囲は1889年(明治22年)佐賀市の市制施行から1969年まで、呉服町と元町(中央マーケットを含む)の全域および、大財町(大財三区および六反田)、上芦町、高木町、千代町(旧・蓮池町)、東魚町の各一部であった。 近代に入ると呉服町付近は佐賀市の商業地として興り、銀行等も店舗を構えた。大正期から、不動貯金銀行佐賀支店、肥前銀行本店が所在した。昭和に入ると、中・大型の商店が建ち始める。 最初の大型商店は「丸木屋呉服店」で、昭和初期に4階建ての店舗を有したが、1933年(昭和8年)に古賀銀行破綻の煽りを受けて閉店する。 跡地には玉屋が進出、同年末、5階建ての店舗を有し当時九州で5番目の百貨店となる「玉屋呉服店」が開業、翌1934年(昭和9年)には「佐賀玉屋」に改称する。佐賀玉屋は、終戦から20年後の1965年(昭和40年)に中の小路の中央大通り沿いに移転するまで、南里呉服店とともに佐賀市内随一の大型店であった。 戦後、1963年(昭和38年)に呉服町名店街はアーケードを設置した。また1966年(昭和41年)からは、呉服町名店街・元町商店街と近隣の白山商店街などが合同で夏の夜市「さが銀天夜市」を開始するなど、昭和40年代は商店街が安定して拡大していった。 一方、玉屋移転後の1960年代後半から、佐賀市中心市街地では大型店の出店が相次ぎ、呉服町(呉服元町)も同様であった。。 1970年(昭和45年)、5階建て衣料品店「ミヤコ」が開業。1974年(昭和49年)、南里が4階建ての衣料品店「南里本店」を新築開業した。1979年(昭和54年)には、明治後期から呉服町に商店を構えていた「窓乃梅」が寿屋と共同で大型店を開業、下層階に核店舗として寿屋のスーパー、上層階に窓乃梅の衣料品エリアが入居する形を採った。 対する商店街では、昭和50年代に入ると店舗の多くが卸売業中心から小売業中心へとシフトしていった。こうして中小の商店街と大型店の競争が起こったが、中心市街地全体でも同様の傾向で、この地域の小売業は昭和50年代頃最盛期を迎えたと見られている。 昭和60年代に入ると小売業店舗の郊外への拡散が始まる。1987年(昭和62年)には、紳士服店や家電量販店が郊外のバイパス沿いに相次いで進出した。1991年(平成3年)の大規模小売店舗法(大店法)改正はこれを加速させる。 こうして中心市街地の空洞化・衰退が進んだ。呉服元町では、1999年(平成11年)に南里本店が閉店し、寿屋佐賀店が撤退、さらに佐賀銀行呉服町支店は老朽化した店舗から撤退し大財1丁目に新築移転した。2005年(平成17年)には窓乃梅も閉店する。2004年(平成16年)に元町商店街協同組合が、2008年(平成20年)には呉服町名店街協同組合がそれぞれ解散、翌2009年(平成21年)には呉服町のアーケードが撤去された。 これに歯止めをかける活性化策として、窓乃梅の跡地に佐賀県国保会館が誘致され2013年に完成。2010年には住民と商店主らにより「街なか再生会議」が発足、別に設立されたまちづくりのNPO「まちづくり機構ユマニテさが」と共に民間のアイデアで活性化立案を始めた。空き店舗の利用、南里本店跡など空き地でのコンテナ型のチャレンジショップ提供などの施策が効果を挙げ、呉服町の空き店舗率は2010年から2016年にかけて5割から3割に低下した。
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