農業用水利施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 09:21 UTC 版)
舘矢間村役場では当時、村内の水田で使用する農業用水利施設の管理も担っていた。 弁財天用水池 ( 慶長元年(1596年) - 昭和8年(1933年)廃止)通称、弁天沼。舘矢間村山田に存在した農業用水の溜池・人工の沼である。鎌倉時代の慶長元年(1596年)に木沼宗吽院の院主が中心となって弁天社(厳島神社)とともに建設された。先ず堤を築き、小坂沢の清流を板付と呼ばれる場所で堰止めて沼へ入水、また沼の北西の市の沢の清流、周辺の沢水等で湛水し、洞場と呼ばれる場所で流量調整し、村内の舘山、木沼、松掛などの各方面の約132haの水田に用水を送っていた。溜池の役割のほか、当時は景勝地でもあり、蓮が群生し、まわりの山の緑と水を湛えた美しい沼の景観は見事なものであった。沼には様々な植物、魚類が生息し、それらを村民が採取し、生活の糧とした。また冬場は沼に分厚い氷が張り、氷を切り出し、氷室に貯蔵、氷は蚕種の貯蔵や夏季には求めに応じて売られ、魚の冷凍、病人の熱冷まし用と伊具郡内の人々の生活に役立った。しかし、農繁期に沼の水が渇水すると、水が十分に行き渡らなくなり、水不足が度々発生することからその後、阿武隈川から取水し、ポンプで揚水する計画・工事が実行された。 舘矢間第一揚水機場 (昭和8年(1933年)- 昭和48年(1973年)廃止)昭和8年(1933年)、 阿武隈川筋の丸森橋上流に揚水ポンプ(30馬力)1台と幹線水路を新しく設置。水田約190haに送水され、 舘矢間村の用水不足は解消された。同時に弁天沼は干拓され、18haの水田に変わった。 弁天揚水機場阿武隈川から揚水した水を、水路から再度揚水し旧弁天沼干拓地、及び松掛地区に送水する二段揚水施設。現在は建屋とポンプが更新されたが、現在も弁天揚水機場として灌漑期に稼働している。 舘矢間第二揚水機場 (舘矢間桑園開田揚水ポンプ) (昭和23年(1948年)- 昭和48年(1973年)廃止)昭和17年(1942年)4月、第二次世界大戦による食糧の急迫によって、米の増産が必要となり、国家の要請により、舘矢間一区(舘矢間村大字舘山字、西・中・東油田)の桑畑など約36haを開田する、桑園開田耕地整理事業が開始。昭和18年(1943年)12月に工事着工し、終戦後の昭和23年(1948年)8月に完成した。それに伴う用水不足を補うため、昭和23年、舘矢間第一揚水機場隣に揚水ポンプ(40馬力)1台が追加設置された。それまで舘矢間一区の農地は用水の確保が難しいため、水田は無く、陸稲、桑、麦などを栽培していた。砂質土壌の畑地を開田したことによる縦浸透の漏水により、水持ちが悪く、圃場に湛水しても2日程度で水が無くなる状況であった。(他の舘山、山田、木沼、松掛の各方面の水田は、水持ちの良い粘土質の湿田、及び乾田である。) 昭和29年(1954年) - 町村合併後、揚水機場、及び水利施設の管理者が丸森町となった。 (以下、追記・町村合併後)しかし、第一・第二揚水機場も阿武隈川の河床低下による水位の低下とポンプの老朽化に伴う故障などで、しばしば揚水不能になった。そこで、管理者である丸森町から抜本的揚水施設の建設を舘矢間地区の水田耕作者に求められた。 昭和46年(1971年)12月10日 - 丸森町舘矢間土地改良区を設立、管理者が町から土地改良区に変わった。(平成10年代に角田土地改良区へ統合合併、現在はあぶくま川水系角田地区土地改良区) 舘矢間揚水機場 昭和48年(1973年)3月31日- 土地改良区が団体営かんがい排水事業の一環として当時最新鋭の舘矢間揚水機場(ポンプ吐出口径500mm・75馬力電動水中ポンプ2台設置)を建設。同時に揚水機場より現在の国道349号線をくぐり、水路(隧道125m、暗渠275m)が新しく建設された。それに伴い、第一・第二揚水機場は役目を終え、廃止、撤去された。 その他、昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて、陸田造成事業により、舘山、木沼などの畑地約80haを開田、また、昭和50年代から現在まで、山田、松掛、木沼地区の一部の圃場において県営舘矢間西部ほ場整備事業などが実施され、現在も舘矢間地区では稲作が盛んに行われている。
※この「農業用水利施設」の解説は、「舘矢間村」の解説の一部です。
「農業用水利施設」を含む「舘矢間村」の記事については、「舘矢間村」の概要を参照ください。
- 農業用水利施設のページへのリンク