輸血の歴史
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歴史上の輸血に類する試みで文書に残るのは、17世紀の年代記作家、Stefano Infessuraの記述に遡ることができる。1492年、ローマ教皇インノケンティウス8世の臨終に際して、3人の10歳の少年の血が医師の提案で、口から与えられた。少年たちには金銭が与えられる約束であったが、教皇だけでなく3人の少年も死んだとされる。Infessuraの作り話であるとする人々もある。ハーベーの血液循環説から、17世紀には、動物を使った実験が行われるようになり、1666年にはリチャード・ロウアーが犬から犬への輸血で失血させた犬に輸血を行い、回復させることに成功した。 人への輸血の試みは、国王ルイ14世の医師を務めたジャン=バティスト・デニが、1667年6月15日に15歳の少年に12オンス(約400cc)の羊の血を輸血し、次に労働者にも羊の血を輸血した。これらの被験者は生き延びたが、輸血の量が少なく、拒絶反応に体が耐えられたためだと考えられる。3人目の被験者が死に、その後、スキャンダルに巻き込まれ1670年にフランスでは輸血の試みは禁止された。1667年にロウアーも人への数100ccの羊の血の輸血をおこなうが、被験者は生き延びた。動物の血のヒトへの輸血は1875年頃、レオナルト・ランドイスらが、異種の動物の血液輸血が溶血反応などを起こすことを、試験管内と動物の生体実験で証明するまで300例以上も実施された。 人から人への輸血に成功したのは、イギリスのジェームズ・ブランデルで、1818年12月22日に内出血で死にかかっている女性患者に夫の血、4オンスを注射器を使って輸血した。患者は2日半ほど元気を取り戻した後死亡し、1825年から1830年の間に合計10人の患者に輸血を行い、その内5人が生き延びた。南北戦争で2回の輸血が行われ、普仏戦争でも戦場で輸血が行われたが、血液型の不整合の問題や、血液の凝固の問題で、多くの失敗例がうまれた。カール・ラントシュタイナーによって血液型が発見されるのは1901年のことであり、この発見が輸血の危険性を減少させることとなった。20世紀初頭の輸血に関する技術に貢献したのはアレクシス・カレルやジョージ・ワシントン・クライルで、血液の凝固を防ぐために、患者の静脈にドナーの動脈を外科的に接続する方法で患者を救った。クライルは1905年に直接接合による輸血法で成功を収めた。1910年代にベルギーの医学者アルベール・ユスタンらによって、血液抗凝固剤の開発が行われ、第一次世界大戦では多くの負傷した兵士の生命を救うこととなった。 日本における輸血の実施は第一次世界大戦に日本赤十字社の救護班を率いてパリに派遣された塩田広重が、輸血の効果を体験し、1919年、日本で子宮筋腫の患者に行って成功した。塩田は1930年に右翼の青年に狙撃された浜口雄幸首相を輸血を行い手術して救った。日本では1974年以降、輸血用血液はすべて献血でまかなわれている。以下の項では特に断りがない限り日本の状況について述べている。 枕元輸血 昭和20年代まで頻繁に行われていた方法で、輸血の必要な患者のあったとき近親者や知人、もしくは供血斡旋業者が派遣した供血者がその場で血液を提供するもの。血液型の合う人がいない場合があることや、感染症をチェックできないこと、GVHDの危険性が高いことから現在はほぼ絶無である。1948年には輸血を受けた女性が梅毒に感染した東大病院輸血梅毒事件が発生、枕元輸血に代わり保存血輸血に移行するきっかけとなった。 血液銀行 いわゆる売血で、血液を提供する代わりに謝礼が受け取れるもの。しかし、麻薬常習者など感染症のリスクの明らかに高い提供者も金目当てに参加するため、当時はまだ知られていなかったC型肝炎の汚染が蔓延した。1964年のライシャワー事件により危険性が大きくクローズアップされ、善意の提供者による献血制度へ移行することとなった。 献血 健康人が無償で血液を提供する寄付行為。報酬としては簡単な血液検査、通算回数の多い献血者に対して記念品を贈る表彰、他に献血による貧血解消のためのドリンクやお菓子など。あくまでも人の善意に頼る面が強いことから、血液の安定供給という点で課題が残っているが、現時点では最も安全で、金銭のやりとりがないため、倫理的な問題もクリアしているといえる。ただし献血血液が売血より安全だという古くからの定説は今日の問診検査の水準を考慮すると疑問が残る。
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