軍歌『加藤隼戦闘隊』
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「加藤隼戦闘隊」の記事における「軍歌『加藤隼戦闘隊』」の解説
「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まるこの歌は、1940年(昭和15年)2月末に南寧に応急派兵された「丸田部隊」こと第64戦隊第1中隊(丸田文雄中尉を隊長とし当時は分遣隊として運用)で、部隊の戦意高揚のため生まれたが、すぐに全戦隊員の要望で「飛行第64戦隊歌(飛行第六十四戦隊歌)」となった部隊歌である。 歌詞の意味は作詞者の田中林平中尉(当時准尉)によれば、「威風堂々、陸の隼がゆくところ、そこには激しい空中戦が待ち構えていた」、「勲の蔭で多くのパイロットが死んでいったが、戦いが継続する限り、哀しみを乗り越えて、我々は祖国のために闘わねばならない」、「立川出征以来、身をもって(華北やノモンハンで)体験した様々の哀歓と感動がこめられ、また亡くなった先輩・戦友を想う心」を秘めた第1中隊の歌であるが、「広く日本陸軍戦闘飛行戦隊に共通する、明野スピリットでもある」という。なお、歌詞に出てくる「隼」とは作詞当時は単に戦闘機を猛禽類に例えた愛称にすぎなかったが、後の太平洋戦争緒戦において第64戦隊が一式戦をもって活躍したため、その部隊歌「飛行第64戦隊歌」から「隼」が取られ「一式戦の公式の愛称」に採用されている(1942年3月8日、陸軍航空本部は一式戦を「隼」と命名・発表)。 1940年2月22日、南寧に到着した第64戦隊第1中隊(丸田部隊)の任務は、援蒋ルートの遮断、柳州、桂林地区への攻撃、南寧地区の防空であった。しかし、南寧は天候が悪く、その上敵航空勢力との会敵もないことから士気の低下が心配された。そこで、部隊人事係に任命された田中林平准尉が士気高揚の為に、北支での戦訓をもとに部隊歌を作ることを発案、歌詞が隊内で公募された。丸田隊長ら将校で選考した結果、同盟通信記者の藤本有典や隊の者の意見を入れて作詞した、十篇近く集まった中で発案者の田中准尉と旭六郎中尉の合作とされるものが選ばれた。この歌詞への作曲は、部隊が広東に戻ったとき南支那方面軍軍楽隊の守屋五郎隊長に丸田隊長が依頼した。この時、丸田隊長が「四節は調子を変えて欲しい」と要望したため、一、二、三、五節は明るいハ長調であるが四節のみはハ短調へと転調(岡野正幸軍曹がこのパートを書いたとされる)され、「悲しき部隊の犠牲者」を偲ぶ思いをあらわす節として完成した。この丸田部隊歌を、当時第64戦隊本隊が駐屯する満州の東京城で朝日中尉が披露したところ、戦隊の全員より懇願され飛行第64戦隊に「申し受け」された。以後「飛行第64戦隊歌」となったという。|宮辺|1986 1941年1月1日に公開された「同盟ニュース映画」で国民に紹介され、映画『加藤隼戦闘隊』でも事実上の主題歌として使用、映画封切直前には灰田勝彦の吹き込みで『加藤部隊歌』のタイトルでレコード化されている。これにより日本国民が広くこの歌を知ることとなり、また「飛行第64戦隊歌」はそのまま「加藤隼戦闘隊」とも呼称され人気を博した。 なお、南支で従軍中の丸田部隊は日本ニュース映画社の取材を受けており、その模様は1940年12月27日に「日本ニュース第30号」「凱歌南支を圧す 陸鷲暁の出動」として公開、空中撮影した編隊飛行を行う九七戦の映像を背景に、この後の「飛行第64戦隊歌」(合唱付)が使用されている。 作詞:飛行第64戦隊 田中林平准尉 作曲:南支那方面軍軍楽隊 原田喜一軍曹、四番の旋律のみ岡野正幸軍曹 JASRAC管理著作物 階級は1940年当時 また、文才も豊かな黒江保彦少佐が第64戦隊時代に、戦地の飛行場で作詞した第二隊歌ともいうべき「印度航空作戦の歌」(作詞:黒江保彦、作曲:ビルマ方面軍軍楽隊荻原益城軍曹)が存在し、当時の人気流行歌手である伊藤久男によりレコーディングされている。このためか、一部では「飛行第64戦隊歌」の作詞者を黒江保彦と混同・誤解されている。ドリフターズは「ドリフの軍歌だよ全員集合!」で加藤茶が歌っている。「ドリフだよ!全員集合(赤盤)」に収録。何故か、一番の歌詞が「しるしは我らが戦闘隊」になっている。
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