起源と理論とは? わかりやすく解説

起源と理論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 01:37 UTC 版)

非形式論理学」の記事における「起源と理論」の解説

形式論理学から非形式論理学への移行理解するため、よくある例全ての人間は死ぬ。ソクラテス人間だ。従って、ソクラテスは死ぬ」を考える(三段論法という推論方法の例)。これは、人々日常的に議論対象とするような話ではない。帰結前提から必ず導き出されるので、議論するようなことは何もない一方実世界人々は、どの政党政権を担うべきか、地球温暖化にどう対処すべきか、死刑道徳性テレビ功罪などを議論しており、その場形式論理学のように真理値一意定まるような答え得られない非形式論理学では、論証とは含意内含ではなく理性的説得のための活動会話解釈される。 以下はそのような論証の例である。 「 上院議員 Paul Martin故郷ウィンザー(カナダ・オンタリオ州)びいきでよく知られている。今回アーサー・ヘイリー自動車業界扱った小説自動車』にウィンザー誹謗する部分があることから、Martin 上院議員立ち上がったヘイリーデトロイト隣接する「汚いウィンザー」を「アメリカでも最も見にくいパートナーマッチしている」と書いている。報道によればMartin は「これを読んだとき、私は激怒した… そこ(ウィンザー)に住んでいる我々は、汚い都市などではないことを知っているカナダでも最上の花園のある都市だ。学校素晴らしく勤勉な人々住んでいる」と述べた。 」 Martinウィンザー汚くないという主張補強する彼なりの理由述べている。しかし、結論区別して考え必要があるMartin彼の論証強さについて何の主張もしていないが、これは一般的である。彼の論証は未検証仮定利用しており、これも日常議論では一般的である。また、解釈問題もある。すなわち "grimy"(汚い)という言葉の意味するところである。この例は、非形式論理学で扱う論証典型であり、ソクラテスの例とは対照的である。2000年JohnsonBlair は定義を修正し日常会話発生する議論だけでなく、Weinstein (1990) が "stylized discourse" と呼んだ調査 (disciplined inquiry)」も対象含めた。 以下はアンセルムス神の存在論的論証である。 「 存在するという属性を、最大備え存在者が存在する。何故なら、存在するという属性は、他の存在者もすべて備えているが、そのような属性を「最大に持つ者」は、まさに、自明的に存在するからである。このような最大存在属性を持つ者」こそは、神である。それ故に、神は存在する。 」 上記の定義を理解するには、「形式的(formal)」との対比で「非形式的(informal)」ということ理解しなければならない1982年Barth と Krabbe は "form"(形式)という用語の意味3つ分類した。"form1" は、プラトンイデア論由来する用語(idea of form究極的形而上学的単位としての意味である。Barth と Krabbe は、多く古典的論理はこの意味形式的であると主張している。すなわち、三段論法は項の論理であり、項はプラトン的(あるいはアリストテレス的)「形式」のプレースホルダーとして理解される。この第一の意味の「形式」では、ほとんど全ての論理非形式的である。非形式論理学をこの意味解釈すると、余りにも範囲広くなってしまう。 "form2" は、現代論理体系理解される式や文の形式意味する。ここでは妥当性前提真な結論も真となる性質)が重要となる。ここで妥当性は、論証構成する文の論理的形式と関係がある。この意味では、現代論理はほとんどが「形式的」である。すなわち、そのような論理では論理的形式正規化され、そこで妥当性中心的役割を果たす。この第二の意味の「形式」では、非形式論理形式的ではない。なぜなら、論理的形式の記法を論証構造理解する手段としては用いず論証評価する目的基準として妥当性を使うこともない妥当性要求は厳密すぎることが多い。妥当性はなくとも、前提から結論導き出されている良い論証存在する標準論理的妥当性満足しなくとも、ある人に死刑宣告する法律では、帰結が「合理的疑い上の前提」から得られる考えられる論証で十分である。 "form3" は、「何らかの規則に従ってある程度調整組織化をされた手続き」である。Barth と Krabbe は「我々はあらゆる種類あらゆる状況下での formality3 を論じない」とし、むしろ「議論勝ち負けについて語るためには、口語的弁証法がある形式(すなわち、従うべき一定の規則群)を持たねばならないというテーゼ論じる」とした。この第三の意味の「形式」では、非形式論理学形式的と見なされうる。というのも非形式論理学だからといって論争的対話において規則基準標準手続き従わないわけではないからである。非形式論理学には、論証評価する基準見当たらない前提検出する手続きなどがある。 非形式論理学論理学一分野ではないという人もいる。Massey基盤となる理論存在しないという理由で、非形式論理学研究そのもの批判している。彼が言うには、他の学問分野では基盤となる理論構造与えるのに対して非形式論理学その代わりとして詳細な分類体系構築する必要があるまた、形式手法における論証妥当性相当するものがなく、例え誤謬研究はむしろ心理学哲学論理学研究した方が興味深い結果得られるだろうと指摘している。

※この「起源と理論」の解説は、「非形式論理学」の解説の一部です。
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