蓬莱社時代
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後藤象二郎の蓬萊社では1873年(明治6年)3月、西洋式機械製糖業を計画し搾汁機と精製機を発注した。搾汁機はサトウキビを搾って白下糖(粗糖)を作り、精製機はそれを精製して精製糖(白砂糖)にする機械である。一方、商人百武安兵衛の洋法楮製商社(1871年設立)は日本初の製紙業を志し製紙機械を発注するが、百武安兵衛は本業の苦境で製紙機械が到着する前に倒産した。倒産した百武安兵衛から頼まれて蓬莱社は同年10月製紙機械を引き取ることにした。製糖機械、製紙機械ともにイギリス製であったため、イギリス人技師を招聘し、大阪中之島に工場を構えることとなった。蓬莱社の企てた機械式製糖業、製紙業はいずれも日本における嚆矢であり、近代的機械製糖業は幕末に薩摩藩が試みたほかは讃岐におけるものと蓬莱社が最初である。製紙業も1874年(明治7年)8月に製造を開始した東京日本橋蛎殻町の有恒社に次いで早い製造開始であった。 この当時の日本では、洋紙の原料は襤褸(ボロ、木綿の古布)が良いとされていたため、蓬莱社は大阪中之島に工場を設けたほか、蓬莱社と時期をほぼ同じく創業した製紙業同業各社はいずれも襤褸を入手しやすい東京、大阪、京都、神戸など大都市に製紙工場を設立したのである。 機械を発注し、工場地を確保し、イギリス人技師も招聘することになった蓬莱社だが商人と士族の会社である蓬莱社には英語に堪能で工場経営に当たれる人材に乏しかった。 そこで工場経営の実務者として白羽の矢が立てられたのが英語に通じたわずか23歳の真島襄一郎である。真島は英語には堪能でも工場経営に当たったことはなかったが、23歳でありながら島田組名代としてすでにその敏腕を評価されていた。蓬莱社の人選の中でもっとも評価が高かったのであろう。蓬莱社大阪中之島工場の製糖業・製紙業の全権を委任されることになる。蓬莱社が真島に与えた月給は100円、この当時の商社(後に三井物産となる)先収会社社員では15-25円程度、もっとも月給額が安い社員で7円であり、同じ時期の抄紙会社(後の王子製紙)支配人の谷敬三が150円、工場助手の大川平三郎は月給6円、職工は5-6円であるので蓬莱社の真島に対する評価の高さは月給の額でも推察できる。 1874年(明治7年)機械とイギリス人技師が到着し11月工場は竣工する。しかし、工場は竣工するが、製糖のイギリス人技師の技術は未熟で砂糖生産は試験操業にもこぎつけず蓬莱社経営時代には実質的に製糖業は行われなかった。 蓬莱社の製紙機械は幅60インチの長網抄紙機で製紙技師は29歳のマクファーレン、製紙機械の試運転を1875年(明治8年)2月に始め1876年(明治9年)には新聞用紙、帳簿用紙、色紙、製本用紙、書翰巻紙、包紙など121トンあまりの紙を抄き売上高は33,406円になる。しかし、蓬莱社本体は創立早々資金繰りが苦しくなり、従業員の月給の支払いも滞りがちになる。勝海舟はこの時期の後藤象二郎の借金に関して「後藤(象二郎)は兎にも角にも幕府の跡始末をしてくれた呉れた人である。その借金が三,四萬圓で埒のあくことであれば徳川家で何んとか心配をするであらうに、蓬莱社その他で百万圓にも上るであらうから何うにも手が出せぬ」というほどで、真島は製紙・製糖の技術面の心配ばかりではなく、経費の節減や運転資金の工面にも奔走する。しかし1876年(明治9年)4月蓬莱社本体の経営はいよいよ立ち行かなくなり、蓬莱社は大阪中之島の製紙工場・製糖工場の機械・設備・債務・債権の一切を真島に譲渡する。 真島は製紙技師マクファーレンから製紙技術を教わるが、マクファーレンは契約が切れた1876年(明治9年)10月イギリスに帰国する。しかし真島はマクファーレンから受けた恩義を忘れず、後年1888年(明治21年)真島が欧米に出張した際にはマクファーレンを訪ね旧交を温めている。さらに養子真島健三郎が1903年(明治36年)渡英した際にもマクファーレンのもとを訪ねさせている。
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