大阪中之島製紙所 東京三田製紙所時代
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「真島襄一郎」の記事における「大阪中之島製紙所 東京三田製紙所時代」の解説
蓬莱社から工場の一切を譲渡された真島は最初はこれを他人に賃貸することを考えるがうまくいかず、ちょうどそのとき東京三田製紙所の使者中島喜左衛門が真島のもとを訪れる。東京三田製紙所では紙幣寮から地券用紙を大量に受注したがあまりに大量の注文で自分の工場だけでは抄ききれないので真島に一部を抄いてほしいと依頼してきたのである。試験的に抄いてみると成績が良かったのでこの話を受け明治13年までこの仕事で相当な利益を上げる。 また、1877年(明治10年)の西南戦争勃発で新聞用紙の需要が激増し真島の工場も忙しくなり、大阪府から融資を受け新しく製紙機械の注文も出している。 このように真島の製紙業は明治10年以降の数年は好調であったが、製糖業の方ではそうはいかなかった。蓬莱社時代には試験操業にすらたどり着けなかったが、苦心の末1887年(明治10年)には試作にこぎつけ1889年(明治12年)には158トンあまりの砂糖を作る。明治12年単年ではかろうじて黒字化もするが翌1890年(明治13年)にはまた赤字に転落している。真島は香港に人を派遣して製糖技術を取り入れようとし、政府内務省も産業振興の一環で真島の製糖業に2万円の融資を行い育成を試みたが、日本全体の中では真島の作る砂糖はとるに足らない量でしかなかった。品質も決して良質なものではなく当時の砂糖取引の記録の中でも真島の砂糖の記載はほとんどない。なかなかうまくいかないためサトウキビの搾汁はやめ、粗糖を輸入して精製のみを行うように変更するが粗糖の輸入代金に使う洋銀の相場の高騰で大きな損失を受け製糖業は休業する。1882年(明治15年)7月には精糖業を再開するがまたもや洋銀相場が高騰し製糖工場は翌月には閉鎖し大阪在住福岡県士族梅津諒助に製糖工場を譲り渡している。梅津の手に渡っても大阪中之島の製糖業はうまくいかず結局1885年(明治18年)大阪中之島の製糖業は終わりを告げる。 明治天皇の工場視察 真島が蓬莱社から譲り受けた大阪中之島の製紙・製糖工場を明治天皇が行幸される。1887年(明治10年)2月16日午前10時大阪府知事の案内で真島の中之島工場を訪れた明治天皇は真島の案内で工場内を見て回り、用意された工場内の休憩所で休憩する。休憩所で天皇のお言葉をいただいた真島は足が震える思いであったのだろう、天皇が休憩された休憩所を行幸記念館と称して大事に保管し、後年それを引き継いだ下郷家が滋賀県に移転し昭和まで保存される。 精糖業の方はうまくいかなかったが、1887年(明治10年)から1880年(明治13年)の時点までは製紙業は好調で、真島は東京にも進出し東京三田製紙所を1880年(明治13年)12月1日譲り受けこれを真島第二製紙所と称した。 しかし、製紙業界に大きな需要をもたらした西南戦争が終了した後に経済界を襲った不況は深刻であり、また、このころの製紙業界では、東京日本橋蛎殻町の有恒社、真島の大阪と東京の二つの工場、東京王子の抄紙会社(後の王子製紙)、京都梅津のパピール・ファブリック社に加えて、神戸のジャパン・ペーパー・メイキング・コンパニーや印刷局抄紙部なども製造を開始し洋紙業界は供給過剰となる。さらに輸入紙の価格は低下し、工場の燃料であった石炭の価格は高騰した。このため真島の会社は深刻な経営難となり1882年(明治15年)8月東京三田の真島第二製紙所を元の所有者の林徳左衛門に売戻し、大阪中之島の製紙工場も同じ1882年(明治15年)8月住友家に売り渡した。 かくして真島の大阪での事業はこれで終了したが、苦労を重ね一時は盛況であった大阪中之島工場に未練があったようである。住友家(工場経営は岡本健三郎に任す)に売り渡す際の契約には後日真島が必要になった際(真島が十分な資金が得たとき)には真島が工場を買い戻す権利が記されている。なので岡本が製紙業に見切りを付、これを大津の近江商人下郷傳平へ譲渡するときにはたびたび真島と折衝したようである。 その後、真島は四日市市の水谷紙料会社(四日市製紙会社の前身)と関係したとされるがその詳細は不明である。
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