大阪万博関連
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1965年(昭和40年)に日本万国博覧会の大阪開催(1970年)が正式決定し、主催者が政府に代わる日本万国博覧会協会に決まったがその会長人事が難航した。会長候補の最有力は関西財界で国際的にも顔が売れていた堀田庄三(住友銀行頭取)で、万博担当大臣の三木武夫通産大臣も秘かに交渉を進めたが、堀田が会長を受ける条件として東京財界から副会長を出して欲しいと、経済同友会を通じて親しかった永野に「引き受けてくれないか」と頼んできた。永野は多忙でまた万博が成功するか懐疑的で、丁寧に断ると堀田も会長就任を断った。関西財界から誰もなり手がないことが分かると三木は矛先を東京財界に向け、永野を第一候補に口説きにかかったが、やはり丁寧に断り、永野が推薦した石坂泰三経団連会長が万国博覧会協会会長に就任した。石坂を推薦した関係で永野も堀田、芦原義重(関西電力社長)、井上五郎(中部電力社長)とともに副会長に就任した。鈴木俊一は、川島正次郎と福田赳夫に日本万国博覧会事務総長就任を頼まれ、永野のアドバイスを受け引き受けた。
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