著作権の先史時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 05:45 UTC 版)
過去より、各種作品の作者や、後援者や、所有者は、その作品の複写の伝播の制御を試みてきた。これは、広く広めたいと言う考えもあれば、逆に自分で独占したいという考えもあった。例えば、モーツァルトの後援者であるワルトシュテッテン男爵夫人は、自分のために作られた、モーツァルトの作品の演奏を許可した。一方で、ヘンデルの後援者であるジョージ1世は、水上の音楽の演奏を独占しようと保護をしていた。 その様な事例はあるものの、15世紀の中旬の西洋社会における印刷機の発明までは、文章は手で複写を行われ、これらの権利が議論となるような機会はほとんど生じなかった。これは、複写にかかるコストが高額であり、新たな書籍の作成とほぼ同じ金額がかかったためである。例えば、ローマ帝国時代においては、本の複写は、読み書きのできる奴隷により行われ、この様な能力を持つ奴隷の購入・維持は高コストであった。そのため、実際、この当時、本の取引が成立していたが、著作権や同様の制限は存在していなかった。この当時、本の販売業者は、評価の高い著者にお金を支払うこともあったが、それは最初の複写の際のみで、著者は作品に対して占有権がなく、通常は、自分の作品に対して何も払われないことが多かった。 ローマ帝国の崩壊後、数世紀の間、ヨーロッパの文学は完全に修道院の中に限られたものになった。本の販売業者に作品を渡す手続きや、商業的に作品をどう保護するかなどのローマ時代の各種慣習は失われてしまっていた。複写自体は、オリジナルを作り出すのと同じくらいの手間とコストがかかるため、ほとんどが修道院の筆記者にゆだねられた仕事であったが、その管理が十分でないため、外部への流出も生じていた。例えば、ケン・フォレットの小説、「大聖堂」(The Pillars of the Earth)では、登場人物が教会と修道院にしか存在しない本を持っている女性と出会い驚愕する場面が記載されている。 この時代、印刷物の保有に関して法的、経済的制限が生じる前は、複写に対する対策として利用されたものとしてブックカースがあった。これは、作者や所蔵者により書物に記載された、呪いの言葉である。これは印刷機登場の初期まで利用された方法で、その例として、作曲家サルモネ・ロッシによる詩篇の組み合わせである ha- Shirim asher li-Shelomo につけられた注釈がある。これは1623年にヘブライ語の字体を用いて最初に印刷された音楽であり、内容を複写した人間へのラビの教義を元にしたブックカースが含まれていた。 この様な写本による複写の時代から、現代の著作権の概念が生じるために、14世紀と15世紀における2つの大きな発展が存在する。1つ目として、主要なヨーロッパの都市における商業活動の拡大と非宗教的な大学の登場がある。これは、教養があり日々の情報に興味がある資本階級の創設に役立った。これは、公共の空間の出現に拍車をかけた。この公共の空間は、要求のあった本の複写を作る企業家の本業者により徐々に増加していった。2つ目としてグーテンベルクによる活版印刷の発明と、これによる印刷機の広がりがある。この印刷機は、従来の写本より短時間でかつ安価で、書籍の複製を生産することができた。 この時代においても著作物に対する争いは存在しており、その1つとして、西暦557年のモヴィーレのアボット・フィニアンと聖コルンバの間の争いがある。これは、アボットの保有している聖詩篇を聖コルンバが複写したことで発生した。複写の所有権をめぐっての争いは、クル・ドレイムーネ (Cúl Dreimhne) の戦い (クールドラマンの戦いとしても知られている) を引き起こし、その戦いで3千人もの命が失われた。
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