自強運動と軍の近代化
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火薬を発明したのは中国であり、中国の戦争では宋王朝の時代から火薬が使われ続けてきたが、ヨーロッパの産業革命の結果、現代的な火器が登場したことにより、中国の伝統的な訓練と装備による陸軍・海軍は陳腐化していった。 1860年の屈辱的な北京占領と円明園略奪の後、曽国藩や李鴻章のような官僚たちや満州人の文祥は西洋の進んだ武器技術を習得し、西洋の軍事組織を模倣しようと努力した。中国兵が現代的な小銃を装備して外国将校が指揮する特別の旅団(一例はフレデリック・タウンゼント・ウォード、後にチャールズ・ゴードンが指揮した常勝軍)は、曽国藩や李鴻章が太平天国の乱を鎮圧するのに活躍した。李鴻章の淮軍も西洋式の小銃を装備して、西洋式の訓練もいくらか取り入れた。その一方、北京では恭親王奕訢と文祥が神機営というエリート部隊を創設した。神機営はロシア製小銃とフランス製大砲を装備して、イギリス人将校が訓練をした。2500人の旗人より成るこの部隊が十倍以上の賊軍を破った時には、良質の装備と良質の訓練を受けた少数精鋭があれば、首都の防衛は十分可能であるという文祥の着想を証明したかにみえた。 軍の改革の主眼は、兵器を改善することに置かれた。現代的な小銃と弾薬を生産するために曽国藩は蘇州に兵器廠を創設した。その後、上海に移転され江南機器製造總局に拡張された。1866年には左宗棠の指導の下で洗練された福州船政局が創設された。これは沿岸防衛のために現代的な軍艦を建造することを目指していた。福州船政局では1867年から1874年までの間に15隻の船を建造した。他の兵器廠は南京、天津(1870年代から1880年代の華北の陸軍に対する主な弾薬供給源となった)、蘭州(北西部で起こったイスラム教徒の大規模反乱を鎮圧する左宗棠を支援するため)、四川、山東に作られた。福州造船廠の顧問を務めたフランスの海軍士官プロスペ・ジケルは、1872年に中国は急速に西欧列強の手強いライバルになりつつあると書いている。 これらの改革と改善のおかげで、清朝は国内の反乱軍に対しては全般的に優勢となった。1864年に太平天国を滅ぼした後、新式装備の軍隊は1868年には捻軍の反乱、1873年には貴州のミャオ族反乱、同じく1873年には雲南のパンゼーの乱、そして1877年には新疆で1862年から続いていた大規模なイスラム教徒反乱を破った。国内の反乱を鎮圧したことに加え、清は外国とも戦って比較的成功した。清軍は1874年の日本による台湾出兵を外交的に解決することに成功し、1881年にはロシア人をイリ川から追い払い、1884年から1885年の清仏戦争では、海戦で多くの失敗を重ねたものの、膠着状態に持ち込んだ。 軍近代化の改革の結果として、実質的に軍事力が向上したが、1894年から1895年の日清戦争において、明治維新後の日本に完敗したことによって、軍事力はまだ不十分であることも露呈した。清国で最強の部隊と名高かった淮軍と北洋艦隊(いずれも李鴻章が指揮)も、日本のよりよく訓練され、よりよく指揮され、機敏な陸海軍には及ばなかった。 日清戦争における驚くべき敗北と、その後の屈辱的な結末をみると、それまでの軍事改革が完全な失敗であったかのようにもみえる。長い間、西洋と中国の学者たちは、軍の近代化を阻んだ要因として、中国人あるいは満州人の自民族中心主義と、華夷秩序的世界観が近代化の要請と相容れない点を挙げてきた。より具体的な要因としては、財源不足(特に1875年以降は新税と関税の財源が他の目的に取られてしまっていた)、西洋的な訓練技術に適合することへの抵抗感、そして文祥や李鴻章といった指導者個人への過度な依存が挙げられる。 自強運動の時期の朝廷による近代化の努力は、多くの歴史家たちによる後智恵の視点でみると、少しずつではあるが、いくつかの永続する成果ももたらしたと言える。清朝末期の近代化の努力は進んでいたが、見かけ上は失敗したようにも見える。その理由は、財源不足や、政治的意思の不足や、伝統を捨てることへの抵抗など、色々と挙げられる。これらは現在でも議論の残る部分である。
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