第124飛行隊設立後
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「第124飛行隊 (イスラエル空軍)」の記事における「第124飛行隊設立後」の解説
1958年1月になると、第103飛行隊のヘリコプター小隊は第124飛行隊 (124 Squadron) として独立した飛行隊となり、ウリ・ヤロムが引き続き飛行隊長となった。1958年2月には、最初の2機のシコルスキー S-58がイスラエルに到着し、3月にはもう2機が届き、これらの機も第124飛行隊の装備となった。また同年、S-55が6機追加配備されたが、S-55のエンジンはイスラエルの気候にあまり適さないとして、1963年に退役するまでの間、主に海上/洋上での任務に用いられた。 1959年の夏には空軍司令官であったエゼル・ヴァイツマンが自身の手によりアルエットIIのテスト操縦を行った。また1959年の終わりから60年初頭に掛けて、アルエットIIによるノールSS.11対戦車ミサイルの発射試験が行われたがうまくいかず、以後アルエットIIが対戦車ヘリコプターとして使われることは無かった。また、イスラエル空軍の最初のヘリコプターとなったヒラー360 "3302"号機は1959年11月に退役となり、アメリカの個人ユーザーに売却された。 1961年1月になると、破綻したイスラエルの民間航空会社"アルキア=アリザ"の保有していた3機のアルエットIIがイスラエル空軍に引き渡され、軍仕様に改造されて"06"、"08"、"09"の機番が付けられて第124飛行隊に加わった。この後、1961年9月に09号機が墜落により損傷し修理のためフランスに送られ、1964年には08号機が墜落し失われた。 1962年には、西ドイツ空軍から放出された24機のS-58が秘密裏にイスラエルに持ち込まれ、こちらも第124飛行隊の装備となった。1963年には、第124飛行隊の飛行隊長がウリ・ヤロムからハイム・ナヴィへと交代した。またS-58の増加により人員が不足気味となり、結果としてS-55は退役し空軍技術学校に移管された。 1965年2月になると、ウリ・ヤロムがスデ・ドブ空軍基地の司令官となった。この時に残っていた2機のアルエットIIもスデ・ドブ基地で運用される事になり、これを運用する部隊として 第100飛行隊の元に"軽ヘリコプター小隊" が編成された。これにより、第124飛行隊の運用機は28機のS-58に統一された。1967年の第三次中東戦争の後、この小隊は第125飛行隊として独立した飛行隊となった。 1965年5月にはウリ・ヤロムはヘリコプターの市場調査のためフランスに派遣され、ここでアメリカのベル社との関係を構築し、ベル47の購入契約を取り付けた。イスラエル空軍は1965年9月に13機のベル47Gを購入し、これを運用する部隊として、テルノフ空軍基地に第123飛行隊 "サウザン・ベルズ・スコードロン / サウザン・ヘリコプター・スコードロン" が編成された。編成時のメンバーは第124飛行隊からも割り振られていた。 1967年の第三次中東戦争では、第124飛行隊のS-58、第125飛行隊のアルエットII、第123飛行隊のベル47Gはそれぞれ作戦参加した。第124飛行隊のS-58は主に空挺兵を敵前線後方に侵入させるミッションに投入された。尚、アルエットIIは指揮官の移動に、ベル47Gは連絡や観測任務にそれぞれ投入された。 第124飛行隊のS-58は第三次中東戦争後の1968年に作戦投入されたのを最後に退役した。また第123飛行隊のベル47も同じ頃に退役した。1968年から1969年に掛けて、第124、第123飛行隊にはアメリカ製のベル ヒューイシリーズのベル 205が配備された。 1972年頃には第123飛行隊は南部のハツェリム空軍基地に拠点を移し、第124飛行隊は主に北部を担当し、第123飛行隊は南部を担当するようになった。 1973年の第四次中東戦争にはベル205を装備して参加したが、この戦争の戦訓に基づきベル205の後継機種の検討が早くも行われ、1975年には第124飛行隊のベル205は双発型のベル 212"ツインヒューイ"への更新が始められた。 1981年8月になると、第124飛行隊は拠点をテルノフ空軍基地からパルマヒム空軍基地に移した。1982年のガリラヤの平和作戦(英語版)においては、第124飛行隊はそれまでに失っていた2機に加え、更に2機のツインヒューイを失った。 1983年には、アメリカ製の新型輸送ヘリコプターUH-60 "ブラックホーク"が1機イスラエルに持ち込まれ、評価が行われた。結果は良好で、イスラエル空軍はこの機種をツインヒューイの後継として最適であると考えたが、予算上の都合ですぐには導入できなかった。 またこの頃、イスラエル海軍が船舶に搭載されたレーダーの射程範囲よりも長射程のハープーン対艦ミサイルを導入したことから、海軍艦船により長距離のレーダー索敵能力を与えるためのヘリコプターの導入が検討され、AS365 ドーファンが選定された。1985年7月に最初の2機のAS365がイスラエル軍に納品され、第124飛行隊に配備された。1987年4月になると、AS365を運用する部隊は第193飛行隊として独立した組織となった。 1994年8月になると、アメリカ陸軍で余剰化した中古のUH-60A 10機がイスラエルに供与される事となり、5機ずつが2機のC-5 ギャラクシーによりイスラエルに空輸された。UH-60A には"ヤンシャフ" (yanshuf, ヘブライ語でフクロウの意) の愛称が付けられ電子機器の改修などが行われた後、第124飛行隊の装備となった。これに伴い第124飛行隊の何機かのツインヒューイは第123飛行隊に移管された。 1997年には、イスラエル空軍はシコルスキー社との間に S-70A-50 15機の導入契約を結んだ。S-70A-50はアメリカ陸軍向けのUH-60L相当の機体で、イスラエル軍向けの電子機器などが搭載された状態で製造される事となっていた。最初の5機は1997年5月にイスラエルに空輸され、7月頃には組み立てが完了し、第124飛行隊に配備された。この15機の追加配備に伴い、第124飛行隊に残っていたツインヒューイは全て第123飛行隊に移管された。尚、初期に導入されたUH-60AもS-70A-50相当に改修を受けた。 この後、2002年には追加発注されたS-70A-50(24~35機)がイスラエル空軍に追加導入され、これらはハツェリム空軍基地の第123飛行隊に配備された。 2015年には第123飛行隊がパルマヒム空軍基地に移転し、パルマヒム基地でのUH-60系列の集中運用体制が取られるようになった。 シコルスキー S-58。イスラエル空軍博物館の展示機。 ナハル旅団(英語版)との合同訓練を行う第124飛行隊のUH-60L。
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