第1の哨戒 1942年5月 - 7月・ミッドウェー海戦と山風
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「ノーチラス (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1942年5月 - 7月・ミッドウェー海戦と山風」の解説
5月24日、ノーチラスはミッドウェー島近海に急行するよう命令を受けた。この方面に日本の艦隊が侵攻してくることが予想されたためである。ノーチラスはミッドウェー島西方洋上に配備された9隻の潜水艦のうち、北から3番目にいた。そして、ミッドウェー海戦を迎える。 6月5日、4時55分ごろ、ノーチラスは水平線上にマストを発見。日本の航空機がノーチラスの潜望鏡を発見して機銃掃射を浴びせてきたので、ノーチラスは30メートルの深度に潜航し、しばらくしてから潜望鏡深度に浮上した。5時10分ごろには、それは駆逐艦を前にやって航行中の戦艦と巡洋艦であることを確認。戦艦は霧島であり、巡洋艦は軽巡洋艦長良だった。ノーチラスは航空機が飛来してくるのを確認し、再び30メートルの深度に潜航。しかし、無観測で進んだ結果、ノーチラスは南雲機動部隊の真っ只中にいた。折りしもミッドウェーから機動部隊を攻撃する航空部隊もおり、混乱が起きつつあった。8時00分ごろノーチラスは再度潜望鏡深度に戻ると、霧島が自艦の左舷側前方2,700メートルに位置しているのを確認。ただちに魚雷2本を発射した。しかし、1本は魚雷発射管に引っかかって発射できなかったし、うまく発射された1本も結局は命中しなかった。ブロックマン艦長は2回目の攻撃の準備にかかるよう指令したが、そうしている間に霧島は25ノットのスピードで去っていった。8時30分ごろ、周囲の駆逐艦が直ちに反撃してきたので、ノーチラスはそのうちの1隻である駆逐艦嵐に向けて魚雷を1本発射したが回避された。9時00分ごろ、再度潜望鏡深度に戻ると、駆逐艦の攻撃にノーチラスは深く潜航して爆雷攻撃がおさまるのを待った。ノーチラスが海中でじっとしている頃、海上では一大ターニングポイントが起こっていた。ほとぼりが冷める頃、ノーチラスは浮上して新たな敵を求めた。 12時53分ごろ、ノーチラスは3隻の炎上する艦船を発見した。この3隻はクラレンス・マクラスキー少佐率いる空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 所属のSBD ドーントレス隊の奇襲で被弾炎上した空母赤城、加賀、蒼龍である。ノーチラスは、一旦は無傷の戦艦か巡洋艦を攻撃しようとも考えたが、結局は自艦に近い手負いの三空母のうち、一番手前の空母を攻撃することとした。ノーチラスは空母に向けて距離2,700メートルから魚雷4本を発射。2本は空母をかすめ去り、1本は発射できなかった。残る1本は空母に命中したが爆発しなかった。護衛の駆逐艦萩風と巻雲が爆雷を投下し、ノーチラスを追い払った。ノーチラスは長い爆雷攻撃から逃れることに成功した。6月7日、ノーチラスは15日間の行動を終えてミッドウェー島に一旦帰投。ブロックマン艦長は海戦での戦闘行為が評価され、海軍十字章が授与された。 なお、ノーチラスが雷撃した空母は、かつては蒼龍であるとされ、JANAC(英語版)の調査で蒼龍撃沈はノーチラスと航空機による共同戦果として扱われた。しかし、のちにノーチラスが攻撃した空母は加賀であるという見方が出てきた。実際、加賀の乗組員が雷跡を目撃しており、乗組員の中にはあわてて海に飛び込む者もいた。JANAC の認定は、蒼龍が加賀である可能性以外は一応は受け入れられている。ただし、不発魚雷だったためか他の理由か、『機動部隊戦闘詳報』と『第一航空艦隊戦闘詳報』ではこの被雷撃については触れられていない。 2日後の6月9日、補給を終えたノーチラスは哨戒を再開し、日本近海に針路を向けた。出撃前、ブロックマン艦長のところに太平洋艦隊潜水部隊司令官ロバート・H・イングリッシュ少将から次のような秘密命令が届いた。「相模湾に侵入し、6インチ砲で葉山御用邸を砲撃せよ」。イングリッシュ少将は思いつきでドーリットル空襲の向こうを張る派手な作戦を海軍でも行って、面目を保とうとしただけの無謀な命令であった。日本の国力の衰微につけこんで我が物顔に日本の海岸にまで踏み込んで行動した戦争末期とは事情が異なっており「この作戦はほとんど自殺行為である」と判断したブロックマン艦長は、命令は受領したものの、結局はこの命令を独断で握りつぶした。6月20日までには、ノーチラスは日本とマーシャル諸島間の補給路の北端に到着していた。6月25日、ノーチラスは勝浦沖で1隻の駆逐艦を発見した。これは大湊から柱島泊地に単艦向かっていた駆逐艦山風であった。ノーチラスは山風に対して魚雷4本を発射し2本が命中。山風は左舷側に倒れて沈没していった。ブロックマン艦長はこの様子を潜望鏡越しに撮影した。6月27日夜にはサンパンを撃沈。6月28日16時30分ごろ、ノーチラスは野島埼灯台沖で水上機母艦千代田を発見し雷撃したが、2本が千代田の後方に逸れて命中しなかった。間もなく、付近にいた敷設艇浮島、第17号掃海艇、横須賀所在の陽炎などが現場に急行し、爆雷攻撃を行った。ノーチラスは60メートルの深度に潜航したが爆雷攻撃により舵系統が損傷。油圧系やエンジン部分にも損傷があった。ノーチラスは損傷の度合いを調査し、思いのほかダメージがあったことを勘案して哨戒を打ち切った。 7月11日、ノーチラスは48日間の行動を終えて真珠湾に帰投。帰投後、ブロックマン艦長はイングリッシュ少将に御用邸砲撃のことを聞かれたが、ブロックマン艦長は返事代わりに沈む山風の写真を提出。イングリッシュ少将は命令を反故にされたことを忘れたかのように大喜びして、写真を記者団に公表。雑誌の表紙等、戦意高揚のために使われた。
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