突飛な言動、借金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:01 UTC 版)
「桂春団治 (初代)」の記事における「突飛な言動、借金」の解説
贔屓客にそそのかされて寒い冬の夜に道頓堀に飛び込んだり、「ネズミにかじられた」と言って羽織の紋にネズミの絵を描いたり、客席から高座にあがったりするなどの意表をついた行動で話題をさらった。また、金貨を羽織の紐に金時計をちらつかせるなどの反面、地方の小屋では真っ裸で高座にあがったりなどもした。 「自宅から寄席まで特注の真っ赤な人力車で通った」とよく言われる。同じ長屋に住んでいた初代日吉川秋水と「どちらが先に人力車で楽屋入りできる身分になれるか」と張り合い、借金漬けの自身にちなみ、「火の車」を掛けて、無理をして仕立てた、という逸話が伝わるが、実はこれは伝説の類いで、先妻のトミや、当時の弟子、女中までもが否定している。この赤い人力車の話は、3代目桂文三のエピソードが春団治に付会されたものらしい。なお、2代目春団治はこの伝説にちなみ、独演会のプロモーションとして泥除けを赤く塗った人力車に乗った。3代目春団治は襲名時や天満天神繁昌亭が開場した際、特注の真っ赤な人力車に乗車し、4代目春団治も襲名時に赤い人力車(3代目が天満天神繁昌亭の開場時に乗ったものと同一)に乗っている。 数多い録音の中でも、1925年には大阪の住吉にあった「ニットーレコード(日東蓄音機)」の協力のもと、本物の煎餅でレコードを作ったことがある。1926年1月に天理教大祭の人出の多さを当て込んで売り出されたが、値段の高さや、あいにくの雨で煎餅の多くが湿気ったことなどで殆ど売れず、春団治は大損した。「レコード#その他」も参照 春団治が所属していた当時の吉本は、芸人が放送番組に出演すると寄席への観客数が減ると考え、これを厳禁していた。そのさなか、春団治はあえて禁を破り、吉本に内緒で勝手に大阪放送局と出演を交渉。1930年12月7日、ラジオ番組に生出演し、一席演じた。吉本では、突如ラジオから春団治の声が流れ始めたために大騒ぎとなり、すぐさま社員が放送を中止させるため上本町のスタジオにかけつけたが、スタジオはもぬけのから。春団治は先手を打って丸物百貨店にあった京都のスタジオから放送していたのであった。放送に同行した娘の東松ふみ子によれば、前日に京都入りし、買い物を装ってふみ子を連れ、荷物用のエレベーターで密かに建物に入る用心をしたという。ただしそこにも吉本の社員が駆けつけ、窓越しに春団治に何かを叫んでいた、とふみ子は回想している。新聞の番組表にも春団治の名は伏せられた。NHK大阪放送局には、ゴム印で急遽「桂春団治」の名が挿入された当時の日録の番組表が保存されている。そこには『祝い酒』を演じた、と記録されており、『黄金の大黒』あるいはSP盤で『祝い酒』として演じている『寄合酒』のどちらかを演じたと考えられる。その日録によれば、ギャラは170円だった。周到な計画による違反行為として吉本側は春団治を謹慎処分にした。このラジオ事件の翌日、吉本興業側の訴えにより、遂に財産差し押さえの仮執行が行われた。この際、執行官から差し押さえの紙を奪い、「もしもし、この口押えはらしまへんのか。これあったら何ぼでもしゃべりまっせ。」と自分の口へ貼り付け、「後はこの私を持っていかはったら?」とアピール。この一件は写真付きで新聞にも大きく取り扱われた。しかし、この放送の聴取者が寄席に殺到する事態となり、吉本の文芸部長橋本鐵彦は、社長の林正之助に「ラジオの力を認めないわけにいかない」と、和解を進言した。この事件は結果として今日に繋がる吉本の対マスコミ路線を築いたこととなる。 晩年の春団治は長年の浪費と莫大な負債とで生活が苦しく、ある日贔屓に呼ばれて貧相な服装で料理屋に来たときは、あまりの下駄の汚さに店の者が驚いたという。 高座で下ネタや艶笑噺を好んで演じていたが、そのたびに臨検席の警官から注意を受け警察署に連行された。始末書を書かされ一円八十銭の罰金を支払って釈放されるのだが、見かねた弟子の桂我蝶(のちの2代目三遊亭百生)から「師匠、ええかげんにしなはれ。」と忠告されると、逆に春団治は「あんな安い広告あるかい。わしが捕まって新聞載ったら客がようけ来るやないか。」と気にもとめず、何度も演じるため、終いには警官の方が責任を追及されるのを恐れて席を立ってしまった。
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