発電所と関係者の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 23:00 UTC 版)
「福島第一原子力発電所」の記事における「発電所と関係者の生活」の解説
鈴木智彦の取材によると、創業初期には下請業者にヤクザと一般の業者の区別など無く、それなりに仲睦まじく付き合っており、「地域全員がグル」のようなものであったという。 1970年代末、原発ジプシーの発表などにより渡り鳥的な労働者が社会的な注目を集めたが、西山のような原発労働に批判的な者からも下請労働者の内容も徐々に移り変わりが見られたことや層による社会的出自の違いが指摘されている。1970年から1975年までの建設工事最盛期には元請は年齢制限もせず、高齢者が多く見られたのに対して、1975年以降は労働者の質の選択が行われ、すすんでB, C区域に入域する20代の若年労働者が評価され始めた。低稼働率を記録した1977年の保修では従来京浜工業地帯に吸収されていた者が自宅から発電所に通勤し、保修作業の中心となっているとされる。 発電所で働く下請作業員が不審な癌で死亡したとしても、企業城下町故、遺族が真相を解明しようとする動きは地元の下請企業や近所付き合いの関係を壊す事に繋がるため控えられる傾向があった。発電所で働く作業員が恩田のようなジャーナリストに接触しようとした場合には、特定次第「明日から来なくてええ」などと雇用関係を解消するなどの圧力をかけ続けたため、取材拒否に遭う事もあったと言う。また、恩田が取材した際には、発電所に働きに行く者の中に、それ以前にはなかった原因不明の体調不良を訴えて死亡した者が何人かおり、遺族は発電所内での作業内容を知る事も出来ず、放射線管理手帳の存在を知らない遺族もいたという。 1977年に本発電所への配属辞令を貰った蓮池透は1回目の赴任をした。期間は3年半に渡っている。その頃は東電社員は大熊、双葉両町に設けられた社員寮に住み、毎朝巡回バスで発電所に通勤していた。当時は職場にロッカーも無く、一日中作業服を着ている生活で、近所の飲み屋にその姿のまま出入りする者もいたが、東電の作業服姿で交通事故を起こした者が出たため1980年代には私服通勤に切り替わっていた。職場は人と専門技術と仕事が待っているため賑やかだったが、寮は人さびしく週末に上京を繰り返す者もいたという。また、周囲と交流する機会も納涼祭が設けられていたが特に親交が深まるような機能は果たせていなかった旨述べられている。一方で地域とのつながりを指摘する証言もある。1988年保修課長として本発電所に赴任した大出厚によると、8月のある日、高瀬川(葛尾〜浪江)の洪水で当時住んでいた自宅(社宅)が巻き込まれ、思い出の品や家財道具一式を失った。この際には、片付けのため地域の住民など多くの人が手を差し伸べてくれ「なんとか生活を続けることができました。こういうときに受けた恩というのはなかなか忘れられないものですね」と述懐している。 東京電力はその社史『東京電力三十年史』において、GEから来た作業員達のための「GE村」に触れている。本国から派遣されてきた社員のために、ゲストハウスや教会が建てられ、GE村と呼ばれた。また1970年代に各原子炉が運転を開始していく中で、GE社はアメリカ本国より補修要員を派遣してきたこともあったが、多くが黒人で、当時のアメリカの被曝限度は日本人より高いことも理由の一つだった。神部次郎によれば、1975年7月より1976年12月まで保健安全センター所長を務めていた際、黒人が作業中に熱射病で口から泡を吹いて運ばれたことがあり、一時は狂乱死するかと思ったほどだったが鎮静剤を打って大熊病院に転送したことがあるという。一方で、GEの極東東京支社に在籍していた菊池洋一によれば、「危険な作業をさせているという例もあったようですが、私が経験した職場ではなるべく日本人に作業をさせようとしていました。外国人労働者に被曝労働をさせていると見られるのを嫌がったようです」と述べている。空港からバスでゲストハウスに送迎した後は毎日発電所との往復のみで、町には出さなかった。菊池は、地元の飲み屋で「危ない作業をしてきた」旨を語られると問題のためと推測している。また、彼らの多くは貧困層ではなく、中には自家用飛行機を所有する富裕層もいたという。 東京電力正社員の中でも大卒と高卒の間には心理的な距離があり、蓮池は計装グループに配属された際、根性焼きのごとく、高卒で同年の先輩社員にわざと線量の高い場所に連れて行かれ、無駄な被曝をしたという。 双葉地方原発反対同盟は、発電所建設による社会的影響についても調査を実施、非行、犯罪、交通事故の増加の背景に風俗産業やスナックなどの飲食店、サラ金の進出があるとの見方を示した。請負労働は一時的な雇用に支えられている面もあるため、失業保険の降りた日は周辺のパチンコ店は日中から満員であったという。
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